毎木曜掲載・第141回(2020/1/9)
「教育の敗北」がもたらした現実
『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口浩治、新潮新書)評者:渡辺照子
何よりも帯のイラストが衝撃的だ。三等分できていない円が描かれている。非行少年たち(実際には「少女」もいるが、本書では特に性差に対しては言及しないので、「少年」という呼称で統一しているそうだ。)の認知のゆがみが象徴的に示されている。彼らはホールケーキを等分に切ることができないのだ。そんな日常の不便さをとっかかりに、著者は非行少年の抱える問題点とその具体的な解決方法を示してゆく。
著者は2009年から医療少年院で6年間、その後女子少年院に1年間勤めた。上記のような「なんでこんな簡単なことすら出来ないのだろう」と考えさせられるような子たちにたくさん出会ったという。凶悪犯罪に走る少年たちにその理由を問うても、少年たちは自己洞察力や内省力がなく、自分の気持と向き合えず、言葉にできない。つまり「反省以前の問題」だというのだ。
著者は長年、医療少年院に勤務し、面接と検査によって実態を目の当たりにする。
・簡単な足し算や引き算ができない(だから、掛け算や割り算などは無論できない。)。
・漢字が読めない。
・簡単な図形を写せない。
・短い文章すら復唱できない。
小学校では「厄介な子」として扱われるだけで、軽度知的障害や境界知能(明らかな知的障害ではないが状況によっては支援が必要)があったとしても看過されてしまうのだという。子供の頃は親や教師からまともに扱ってもらえず、犯罪に追いやられ、少年鑑別所に入って初めて障害であることを認知される。多々あるその現象を著者は「教育の敗北だ」と痛切に自己批判している。
私が最も興味深かったのは「褒める教育だけでは問題は解決しない」という点だ。問題に対して早期の発見と支援が必要だとの提言に加え、現在の支援スタイルである「良いところを見つけて褒める」「自信をつけさせる」だけの限界性の指摘には目をひらかれた。「苦手なことをそれ以上させないのは、伸びる可能性を潰しているかもしれず、例えばいつまでたっても忘れ物をするという行いについては、その問題解決の先送りだと言っている。
本書には非行少年が持つ障害をいくらかでも克服し、犯罪者ではなく納税者になってもらうことは日本の国力を上げるために重要だとの提言がある。その事により、非行少年の問題が「極端に不幸な者たちの同情すべきこと」ではなく、我々の問題でもあると認識させられる。(この文脈では、「納税者云々」は、国家による「動員の論理」ではないこともお断りしておく。)
綺麗事に終わらせず、そこまで主張する著者は、常に現場の非行少年から学び、彼らに問題の克服の困難性の要因を求めるのではなく、教育する立場の者に要因を求めている。欧米のメソッドが必ずしも日本では有効ではないこと、非行少年はつねに学びに飢えているということ、既存の授業形式で全くやる気を見せない者も教える役割に回ると喜々として取り組むこと、等々、理論や教科書を超えた、試行錯誤を重ねながらの実態経験が貴重だ。
教育の劣化が叫ばれて久しい。押し付けでしかない「道徳教育」、いじめを看過する現場、教育の名を借りた管理、等々。だが、根本はもっと深いところにあるのではないか。学校教育では学習面、身体面(運動面)に並び、対人スキル、感情コントロール、問題解決力といった、生きてゆくのに必要な系統的な社会面の支援が学校教育において欠落している、との指摘は、広範に共有化されるべきだと思う。
本書は問題ある教育にすら到達し得ない非行少年の問題を浮き彫りにすることによって、教育の本質と深部を照射できたと思う。そのことで人間が社会で生きるために必要な学びへの普遍性の明示に成功した。だからだろう、昨年末において12刷、25万部にもなっている。障害にまつわる痛ましい事件が起こる一方で、私はそこに希望を見出したい。
*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美、根岸恵子、杜海樹、ほかです。
「教育の敗北」がもたらした現実
『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口浩治、新潮新書)評者:渡辺照子
何よりも帯のイラストが衝撃的だ。三等分できていない円が描かれている。非行少年たち(実際には「少女」もいるが、本書では特に性差に対しては言及しないので、「少年」という呼称で統一しているそうだ。)の認知のゆがみが象徴的に示されている。彼らはホールケーキを等分に切ることができないのだ。そんな日常の不便さをとっかかりに、著者は非行少年の抱える問題点とその具体的な解決方法を示してゆく。
著者は2009年から医療少年院で6年間、その後女子少年院に1年間勤めた。上記のような「なんでこんな簡単なことすら出来ないのだろう」と考えさせられるような子たちにたくさん出会ったという。凶悪犯罪に走る少年たちにその理由を問うても、少年たちは自己洞察力や内省力がなく、自分の気持と向き合えず、言葉にできない。つまり「反省以前の問題」だというのだ。
著者は長年、医療少年院に勤務し、面接と検査によって実態を目の当たりにする。
・簡単な足し算や引き算ができない(だから、掛け算や割り算などは無論できない。)。
・漢字が読めない。
・簡単な図形を写せない。
・短い文章すら復唱できない。
小学校では「厄介な子」として扱われるだけで、軽度知的障害や境界知能(明らかな知的障害ではないが状況によっては支援が必要)があったとしても看過されてしまうのだという。子供の頃は親や教師からまともに扱ってもらえず、犯罪に追いやられ、少年鑑別所に入って初めて障害であることを認知される。多々あるその現象を著者は「教育の敗北だ」と痛切に自己批判している。
私が最も興味深かったのは「褒める教育だけでは問題は解決しない」という点だ。問題に対して早期の発見と支援が必要だとの提言に加え、現在の支援スタイルである「良いところを見つけて褒める」「自信をつけさせる」だけの限界性の指摘には目をひらかれた。「苦手なことをそれ以上させないのは、伸びる可能性を潰しているかもしれず、例えばいつまでたっても忘れ物をするという行いについては、その問題解決の先送りだと言っている。
本書には非行少年が持つ障害をいくらかでも克服し、犯罪者ではなく納税者になってもらうことは日本の国力を上げるために重要だとの提言がある。その事により、非行少年の問題が「極端に不幸な者たちの同情すべきこと」ではなく、我々の問題でもあると認識させられる。(この文脈では、「納税者云々」は、国家による「動員の論理」ではないこともお断りしておく。)
綺麗事に終わらせず、そこまで主張する著者は、常に現場の非行少年から学び、彼らに問題の克服の困難性の要因を求めるのではなく、教育する立場の者に要因を求めている。欧米のメソッドが必ずしも日本では有効ではないこと、非行少年はつねに学びに飢えているということ、既存の授業形式で全くやる気を見せない者も教える役割に回ると喜々として取り組むこと、等々、理論や教科書を超えた、試行錯誤を重ねながらの実態経験が貴重だ。
教育の劣化が叫ばれて久しい。押し付けでしかない「道徳教育」、いじめを看過する現場、教育の名を借りた管理、等々。だが、根本はもっと深いところにあるのではないか。学校教育では学習面、身体面(運動面)に並び、対人スキル、感情コントロール、問題解決力といった、生きてゆくのに必要な系統的な社会面の支援が学校教育において欠落している、との指摘は、広範に共有化されるべきだと思う。
本書は問題ある教育にすら到達し得ない非行少年の問題を浮き彫りにすることによって、教育の本質と深部を照射できたと思う。そのことで人間が社会で生きるために必要な学びへの普遍性の明示に成功した。だからだろう、昨年末において12刷、25万部にもなっている。障害にまつわる痛ましい事件が起こる一方で、私はそこに希望を見出したい。
*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美、根岸恵子、杜海樹、ほかです。