富士正晴という人がいた。1913(大正2)年10月30日、徳島県の村に生まれる。家族と転々としたあと生涯の後半生を、竹藪に囲まれた丘の上のボロ家に憮然として坐りつづけた。それでも、詩・小説・評論・伝記・雑文・中国文学の翻訳etc、50冊余の著作と多くの文人画を残した。
富士正晴は、大の学校嫌いだった。旧制三高に入学したにも拘らず落第を重ね、とうとう退学した。そして、学校は上へばかり卒業するのではなく、横へ卒業する仕方もあると豪語した。それゆえにか、思想や文学を業とするまじめぶった知識人のうじゃうじゃ理屈をこねまわしたような、大学の先生向きの文章などをテンから信用しなかった。今なお根強い学歴社会を軽蔑した。
富士正晴は、かつての戦争で中国戦線に一兵卒として狩り出された時、「戦時強姦をしない」と心に決めた。ということは、日本軍がいかにそういうことを公然とやっていたかということだ。幸い、鉄砲玉一つ撃たずに復員できたが、日本の中国に対する侵略戦争の実態を目の当りにし、戦後、日本がそれらに責任をとらず放置し、豊かになることを深く恥じた。高度成長などどこ吹く風。大嫌いな新幹線には片手の数ほども乗らなかった。晩年のレンブラントのように、売れない原稿を茅屋の畳に坐りづめに坐って八方やぶれで書いた。
富士正晴は、アメリカの言いなりに、水爆結構、基地結構とおべんちゃらをいう日本及び日本人の植民地根性に我慢がならなかった。そしてアメリカが天皇制を残したのは、主人に言いなりになる日本及び日本人の植民地根性=奴隷根性を見抜いたからだと喝破した。上意下達が日本人は好きなのではないか。それは徳川時代にととのい、明治維新がそれを利用し、やがて戦争で強固になった。これが百年や二百年で果たして払拭できるだろうか。そして、ベトナム戦争時におけるベトナム人のアメリカに対するレジスタンスを高く評価し、日本人にそんなことができるかい、日本にはレジスタンスの伝統なんかないと言いきった。
富士正晴は、冠婚葬祭には、いっさい顔を出さなかったが、同時代で親しかった師や文学者や友人などが亡くなった時には、手厚い文章で追悼した。特に、41歳で黒部渓谷で墜死した竹内勝太郎の著作・日記などの刊行には、生涯をかけて奮闘し、その恩に報いた。またみずからが中心で創刊(1947.10)した同人雑誌「VIKING」の仲間で、21歳で鉄道自殺した芥川賞候補作家の久坂葉子に対しては、小説で書きとどめるとともに、その作品集の刊行に力を注いだ。「VIKING」を何よりも大事にし、その同人達を愛した。そこから何人もの作家が巣立った。海賊船は今も航海をつづけている。
富士正晴は、新聞を読むこと、時にテレビを見ること、友人知己と電話で話す(夜中に1時間に及ぶこともあった)こと、本を読むこと、来る客を拒まず呑んで話すことを世間との通路とし、世間に直接触れることはほとんどなかった。つまり肉体は動かなかった。しかしその精神は心ある人びとのなかに深くとどき、彼らを鼓舞し勇気づけた。しかし日本はますますあらぬ方向にすすんだ。とうとう飽きれ果て、わしゃ少々生き過ぎた。ポコリと死ぬのがわがのぞみなどとつぶやいた。そしてその言葉どおり、1987年7月15日早朝、たった一人で冷たくなっていた。74歳。
死後、岩波書店から『富士正晴作品集』全5巻が刊行された。生前、どこの出版社の文学全集にも「富士正晴集」があったためしはなかった。それが日本の文学界の現状だった。死んでからはじめて、まとまった印税を受けとることができたが、むろん、本人は知る由もなかった。
*なお『戦後文学エッセイ選・富士正晴集』は影書房から発行されている。こちら
富士正晴は、大の学校嫌いだった。旧制三高に入学したにも拘らず落第を重ね、とうとう退学した。そして、学校は上へばかり卒業するのではなく、横へ卒業する仕方もあると豪語した。それゆえにか、思想や文学を業とするまじめぶった知識人のうじゃうじゃ理屈をこねまわしたような、大学の先生向きの文章などをテンから信用しなかった。今なお根強い学歴社会を軽蔑した。
富士正晴は、かつての戦争で中国戦線に一兵卒として狩り出された時、「戦時強姦をしない」と心に決めた。ということは、日本軍がいかにそういうことを公然とやっていたかということだ。幸い、鉄砲玉一つ撃たずに復員できたが、日本の中国に対する侵略戦争の実態を目の当りにし、戦後、日本がそれらに責任をとらず放置し、豊かになることを深く恥じた。高度成長などどこ吹く風。大嫌いな新幹線には片手の数ほども乗らなかった。晩年のレンブラントのように、売れない原稿を茅屋の畳に坐りづめに坐って八方やぶれで書いた。
富士正晴は、アメリカの言いなりに、水爆結構、基地結構とおべんちゃらをいう日本及び日本人の植民地根性に我慢がならなかった。そしてアメリカが天皇制を残したのは、主人に言いなりになる日本及び日本人の植民地根性=奴隷根性を見抜いたからだと喝破した。上意下達が日本人は好きなのではないか。それは徳川時代にととのい、明治維新がそれを利用し、やがて戦争で強固になった。これが百年や二百年で果たして払拭できるだろうか。そして、ベトナム戦争時におけるベトナム人のアメリカに対するレジスタンスを高く評価し、日本人にそんなことができるかい、日本にはレジスタンスの伝統なんかないと言いきった。
富士正晴は、冠婚葬祭には、いっさい顔を出さなかったが、同時代で親しかった師や文学者や友人などが亡くなった時には、手厚い文章で追悼した。特に、41歳で黒部渓谷で墜死した竹内勝太郎の著作・日記などの刊行には、生涯をかけて奮闘し、その恩に報いた。またみずからが中心で創刊(1947.10)した同人雑誌「VIKING」の仲間で、21歳で鉄道自殺した芥川賞候補作家の久坂葉子に対しては、小説で書きとどめるとともに、その作品集の刊行に力を注いだ。「VIKING」を何よりも大事にし、その同人達を愛した。そこから何人もの作家が巣立った。海賊船は今も航海をつづけている。
富士正晴は、新聞を読むこと、時にテレビを見ること、友人知己と電話で話す(夜中に1時間に及ぶこともあった)こと、本を読むこと、来る客を拒まず呑んで話すことを世間との通路とし、世間に直接触れることはほとんどなかった。つまり肉体は動かなかった。しかしその精神は心ある人びとのなかに深くとどき、彼らを鼓舞し勇気づけた。しかし日本はますますあらぬ方向にすすんだ。とうとう飽きれ果て、わしゃ少々生き過ぎた。ポコリと死ぬのがわがのぞみなどとつぶやいた。そしてその言葉どおり、1987年7月15日早朝、たった一人で冷たくなっていた。74歳。
死後、岩波書店から『富士正晴作品集』全5巻が刊行された。生前、どこの出版社の文学全集にも「富士正晴集」があったためしはなかった。それが日本の文学界の現状だった。死んでからはじめて、まとまった印税を受けとることができたが、むろん、本人は知る由もなかった。
*なお『戦後文学エッセイ選・富士正晴集』は影書房から発行されている。こちら