太宰治の『走れメロス』の中に、「信実」という言葉が三度登場する。最初は、妹と妹婿の結婚披露宴を退出して羊小屋で眠り、王との約束の3日目の朝に起きて村を出発するときだ。「あの王に、人の信実の存するところを見せてやろう」(新潮文庫 P.146)と言うくだりがある。二度目は、激流の川を泳ぎ渡り、襲撃してきた山賊を撃退し、体力が尽き果てて路傍に倒れ込んだときである。箱根駅伝の区間途中で意識朦朧となる走者のように、疲労困憊して足が動かず、もうだめだと諦め、絶望の境地でこう嘆く。「正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる哉」(P.150)。三度目は、物語のクライマックスとエンディングの幕で、メロスとセリヌンティウスの友情に感激した暴君ディオニスが、群衆の歓喜の中、改心して反省の弁を垂れる場面である。「おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうかわしをも仲間に入れてくれないか」(P.154)と言う。
何気なく作品を読み返していて、「信実」という言葉に遭遇し、そこで立ち止まって検索で意味を調べた。日常では滅多に見ることのない熟語であり、使われない言葉だからである。読み進むうち、同じ言葉が何度も出て来ることに気づき、明らかに作者が物語の主題を示すキーワードとして配置している作為を感じ取り、最早、「信実」の語に拘って考え込まざるを得なくなった。辞書を引くと、「まじめで偽りのないこと」「打算がなく誠実であること」という短く端的な説明がある。そうだったっけ、と思う。15年間、延々とブログを連載して言葉を探す旅を続け、長ったらしく辟易とされる文章を惰性で書き続けてきたが、「信実」の語は一度も使ったことがない。すっかり忘れていたというか、語彙の記憶の倉庫から消えてしまっていた言葉だった。まさに、老齢になって言葉を発見した気分である。この発見というか再会の機会に、深刻に考え込んでしまうのは、「信実」の日本語が昔は決して珍しく特別な言葉ではなかったということだ。『走れメロス』の中にだけ印象的に登場する言葉ではなかった。
新渡戸稲造の『武士道』にも登場する。「信実と誠実となくしては、礼儀は茶番であり芝居である」という一節があり、この言葉は金言・格言として広く知られ、「今日のことば」として頻用されていることが窺える。新渡戸稲造が使い、太宰治が使っているのだから、「信実」は昔の日本では今よりももっと身近で、日常の議論や文章に用いられる倫理の一般語だったのだろう。そう想像する。今はあまり見ない。ほとんど接する機会がなく、文中に「信実」の表記があれば、「真実」の誤植・変換ミスではないかと疑ってしまうほどだ。新渡戸稲造が、敢えて信実と誠実の二つを並べて別個に置いているところから、二つの語の意味は似ているけれど少し違うことが分かる。今は、「信実」は「誠実」に吸収され、「信実」の独特の意味が消されているというのが日本の思想状況のリアルだろう。私なりに、二つの語の違いの解釈と了解を言うと、「信実」は、偽りがないこと、ウソがないというところに力点がある。「誠実」は、真心(まごころ)の方に力点があり、私利私欲を排する態度である。二つは意味が異なる。
ここまで書いて、もう簡単に結論を述べてよいと思うが、われわれが「信実」という - 『走れメロス』の核心に措かれたキーワードである - 重要な日本語をきれいさっぱり忘れ、頭の中にその表象がないのは、われわれの社会の中に「信実」の契機と実体が絶えてないからだ。「信実」という常識の倫理用語を必要としない社会だからだ。「信実」の意味を知らずに生きており、そんな言葉は邪魔な社会に生きているからだ。大衆も支配層も「信実」などは知らず、そのような語の意義・重要性を認めていない。総理大臣や官房長官が記者会見や国家答弁の場で、常に平気でウソとゴマカシを言い、虚弁と欺瞞が追及されず、糾弾されず、退治されず、成敗されず、責任をとらされずに済む社会だから、「信実」の日本語は人々の国語辞書から消えているのである。「特に問題には当たらない」、「仮定の質問には答えられない」、「個別の問題は回答を差し控える」がまかりとおる現実空間が、メロス的な「信実」の消滅した世界なのだろう。まさしく、メロスの言う「人を殺して自分が生きる」のが「定法」の社会であり、野生動物が自己責任(弱肉強食)原理のみで生きる野蛮な世界なのだ。
『走れメロス』は、今でも中学2年の国語の授業で教えられている。昔と同じように国語の教科書に載っている。果たして、現在の教師はこの物語をどう教え、教室のこどもたちに「信実」をどう説明しているのだろう。子どもたちはどう学び受け止めているのだろう。当然のことだが、この物語は国語の教課の一部だけれど、倫理教育のテキストとして位置づけられている。義務教育の一課程としてその目的と役割を持っている。『走れメロス』は、少年少女に何より「信実」の尊さを教え、「信実」に前向きな精神を養う教材だ。また、友情の尊さと崇高さを教え、親友を持ち大切にすることを誘う指導書だ。さらには、どれほど身体的精神的に苦しい窮地に陥っても、希望を棄てず、最後の最後まで諦めず、意志と目標と大義を失わず、克己し、粘り抜いて困難を克服することを教える読本だ。運動部の部活をやっている子どもたちは、メロスと自分とを重ね、感情移入し、ドラマの叙述を導きの糸として内面化することだろう。それからまた、倫理の力の前には暴君権力者も屈服し、悔悟と更生を通じて革命が成就されるのだという政治の理想も教えている。暴政に反抗する人民の正義と勇気の意義を説いている。
貧富の格差のある新自由主義のブロイラーとして子どもが育てられ、誰か弱い子どもが無造作にいじめ自殺の標的にされ、仕留められ、そうでなければ、不登校やメンタルヘルスの障害に追い込まれている。教師も学校も教育委も知らぬ存ぜぬで責任逃れし、児相の職員がバタバタ走り回っている。それが当たり前になり、東大がどうの偏差値がどうの帰国子女がどうの一芸入試がどうのと言い、山口真由が不敵な面で呵々大笑している。その日本の教育空間で、「走れメロス」の倫理はどう教えられ、どう受け止められているだろう。私には難問すぎて説明どころか想像もできない。『走れメロス』に描かれ主題として強調されている倫理的基礎を、否定しつくし、破壊しつくし、不要のものとして廃棄処分し冷笑しているこの国で、ダウンタウンのようなグロテスクなお笑い右翼がテレビを支配して国民を教育する国で、その学校空間で、とっくに嘗ての教育基本法の精神を忘れたサラリーマン教師たちは、どのようにこの作品を教えるのだろう。今の日本は死語の世界だ。「信実」は死語となっている。野生動物にもブロイラーにも言葉など必要なく、こんな感じの死語が、きっと幾つもあるのに違いない。
中学校の国語はとても楽しかった。幸福な時間だった。中学2年の『走れメロス』、『平家物語』、『枕草子』、中学3年の『故郷』の教室風景は今でも覚えていて、国語担任のN先生の授業が懐かしい。中学校のときは国語の授業が楽しくてたまらなかったが、高校に入ると現代国語は休息の時間となり、教科書を机に立てて顔を伏せ、家での睡眠不足を補う時間となった。その結果、本も読まない、文学方面には興味も関心もない残念な子どもになってしまった。生徒が教科を学ぶ上で、教師の存在と関与がいかに大きいかを痛感させられる。教育とは教育者のことだ。N先生は教科書に載っている作品群を強く愛し、そのコミットとリスペクトを情熱的に生徒に伝え、子どもたちを作品と作者の世界に導いていた。皆、作品を愛する人間に育った。『走れメロス』を教える教育課程は、当然、太宰治の人生や人脈や社会的影響を教えることが重要な内容になる。『人間失格』や『斜陽』について簡単に説明することも加わる。N先生の言うには、何でも太宰治に感化されて自殺した教え子が出たとかいうことで、太宰治は偉大で魅力的な天才だけれども、思春期にあまり接近し没入するのは要注意だと、そういう警告を発していた。
私はといえば、『走れメロス』の、まるで小学校低学年向けの絵本の原作のような、西洋古代を舞台にした、シンプルでストレートな、純粋で熱血で勧善懲悪の物語と、デカダンスで自堕落で毒性の強い太宰治のプロフィールと、その二つがあまりに乖離して整合性がないのにただ驚くばかりだった。
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『走れメロス』と「信実」 - 死語の世界の日本 世に倦む日日
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