薩摩の金融人脈と白洲次郎の結合
外交官から首相に上り詰めた吉田茂は、元勲・大久保利通の外戚で横浜出身の元駐英大使であり、敗戦直後の日本の政治においてワンマン宰相として君臨した。しかし、その正体は謎に満ちている。養父の吉田健三は、越前藩士の渡辺謙七の三男で、幕末に大阪と長崎で蘭学を学び、英国に密出国して留学し、帰国後は横浜の「英一番館」で働き「ジャーディン・マセソン商会」の支配人になった。
ジャーディン・マセソン商会は、中国・広州をはじめ上海や香港を舞台に、アジア貿易で巨大な富を蓄積した、英国に本社を持つ貿易商社である。前身は英国東インド会社であり、アヘン戦争では主役といえる役割を果たした。坂本竜馬で知られたトーマス・グラバーも、この会社の長崎代理店に勤め、武器や船舶の取引を行ない、「長州ファイブ」や薩摩の若者らの英国留学を手伝っている。
支配人を辞めた吉田健三は、独立して貿易で財を成して、横浜の豪商として成功しており、土佐の民権活動家の竹内綱から養子として引き取ったのが吉田茂だった。また、吉田茂の妻の雪子は第一次大戦後のパリ講和会議で全権代表を務めた牧野伸顕の長女で、米国で中学を出た牧野は、天皇を補佐する内大臣として、戦前の政治の背後で重要な役を演じた。 大久保利通の次男である牧野も外交官から官僚政治家になり、文部大臣や農商務大臣を歴任してから枢密顧問官を経て宮中に仕え、戦前の歴史に影響を残している。
そうした出自を持つ吉田は英米協調路線を保持、第二次世界大戦時には、戦争終結工作を行なった「ヨハンセングループ」の背後で、東條英機内閣の打倒運動を支えた。 一九四六年、敗戦の混乱の中で第一次吉田茂内閣は発足した。これに食い込んだのが白洲次郎だ。得意のキングズ・イングリッシュを活用し、終戦連絡中央事務局の顧問に就任、GHQを相手にして立ち回っている。そんな白洲に対するヨイショ本の山があるように、日本人の多くは幻惑され、野卑なアメリカ人を見返したつもりで鬱憤晴らしをしているようだ。しかし、いろいろな証言が示すのは、彼が日本人ではない、ということだ。
白洲はその後、貿易庁の長官に就任し、利権漁りに取り組んでいたが、背後に国際金融勢力が暗躍したことについては、鬼塚英昭が『白洲次郎の嘘』 (成甲書房)に書いたとおりだ。
この時期の日本を支配したのは「見返り資金」と呼ばれていた米国からの復興資金の流れであった。食料援助が「ガリレオ資金」で、資源関係が「エロア資金」と呼ばれた。管轄は大蔵省と外務省だったが、商工省を通商産業省に改組し、国鉄の電化と電力再編成に際してこの資金の流れを変更した時に、利権漁りする者が暗躍。四九年に下山事件が発生したのはその過程でのことだった。
そうした状況にあった五〇年に「日本輸出入銀行」が、五一年に「日本開発銀行」が発足している。資金難の企業に対し低金利で資金供給することにより、経済の活性化を狙ったものである。当時、蔵相と通産相を兼任していた池田勇人は首相よりも大きな権力を持ち、丸投げされた権限を使いまくり、経済再建のアクセルを踏み込んだ時に、朝鮮戦争が勃発したのである。
日本は戦争の後方の生産基地になったので、産業界は特需に見舞われ、米軍が戦争で買い付けた物資の総額は、五〇年から三年間の間に一〇億ドルに達したし、五五年までの五年間では四〇億ドルに近いものになった。この特需効果のおかげで日本経済は息を吹き返したが、繊維産業や軽工業に始まり、製鉄や造船工業が活況を呈して、エネルギー源は電力と石炭が景気浮揚の原動力として重要視され、集中的な資金投資が進んだ。
核エネルギーを地上に持ち込んだ愚かな判断
戦後、米ソの冷戦構造が強まるなかで、一九四九年にソ連が核爆発に成功、米国による原爆の独占体制が崩れた。アイゼンハワー大統領は国連で「核の平和利」の演説を行ない、原子力発電が政治課題になった。だが、原発は原爆の応用技術であり、さらに潜水艦の発電装置がベースであるように、軍事から転用した技術だし、実用化に程遠い段階だった。
そもそも核技術は、ナチスの原爆研究に対して危機感を抱いたユダヤ人が、アインシュタインらに頼み込み、米国政府に原発開発を懇願して始まった。それが「マンハッタン計画」で、史上最大のこの開発計画に一三〇〇兆円の予算を注ぎ込み、テネシー州オークリッジの濃縮施設と、ニューメキシコ州のロスアラモスで、原発開発と実験が極秘に進められた。
だが、核エネルギーの利用は、生命体がいる地球上において使うには愚かだし危険である。アインシュタインなどの科学者は、そこまで考える知恵がなかったということだろう。人間の寿命さえ長くても百年で、多くの生命は数年前後だが、生命が生きている地球に、半減期が二万四千年も長いプルトニウムを持ち込むことへの洞察力は皆無だった。
二十世紀は「物理帝国主義」の時代だった。つまり、数量化でき見えるものだけが総(すべ)てだと考える傾向が支配的であった。物理法則については理解しても、それを部分化し、知の地平を押し広げる宇宙法則を覚(さと)る人は少ない。
経済復興と原子力政策へのCIAの関与
一九五〇年代の日本は、湯川秀樹博士 の中間子理論がノーベル(物理学)賞をもらったことに大喜びし、原子力を利用しようと考え、政治家や商売人が頭を捻り、次の作戦に踏み出そうとした。読売新聞社主の正力松太郎は、政治権力のトップに立つためにマイクロ波通信網を作り上げ、原発開発をプロジェクトに仕立て、旗振り役を熱心につとめた。
正力はアメリカに媚を売り、CIAのエージェントを引き受け「ポドム」という暗号名まで与えられ、新聞を使い原発の推進を叫び、宣伝メディアとして五三年に日本テレビを開局した。おりしもゼネラルダイナミックス社が原子力潜水艦ノーチラス号を進水させ、ウエスチングハウス社製の原子炉がキャンペーンにもってこいだった。もちろん、読売新聞は全力を挙げて礼賛・宣伝した。
衆院議員だった中曽根康弘が渡米してハーバード大学のゼミに参加したのはその頃だ。そこで、後のニクソン政権下で暗躍するキッシンジャー助教授から核武装論を吹き込まれ、原子力について興味を強めた。しかも、中曽根を夏季ゼミに参加させ、キッシンジャーに結びつけたのは、ジョンズ・ホプキンズ大学が首都ワシントンに持つ「高等国際問題研究大学院」のセイヤー教授である。彼はCIAのアジア太平洋部長だった。
セイヤー教授は中曽根を核武装論者に仕上げ、間近に迫った保守合同の布陣における理論武装の手助けをした。そして、帰国した中曽根は大急ぎで原子炉調査予算案を作って二億三五〇〇万円の調査費を獲得し、日本の原子力計画が動き出した。愚かな原発路線の出発点として、五四基の原発が地震列島の上に作られた。
そして日本では五五年、それまで政党の乱立が続き、分裂していた社会党が統一したので、慌てた与党が財界に促され、自由党と民主党が保守合同し、五五年体制が始まっている。岸信介や正力松太郎の場合はCIAのエージェントとして行動したが、用心深い中曽根は政界に潜み、通産相や関連閣僚になり、行政面からのアプローチを使い、原発路線を核武装のために推進した。
経済大国の虚名に酔った日本の総括
日米安保条約の改定問題で賛否の対立が運動を盛り上げ、騒擾を伴った安保闘争が収斂した時に、所得倍増の池田勇人内閣が発足し、政治が経済至上主義に転じた。結果として経済は活況を呈し、東京オリンピック開催を迎え、東海道新幹線の完成をはじめとして、家電製品や自家用車が普及し、国民の生活は豊かさに包まれ、世界第三の経済大国になった。
大型ダムの建設計画が一段落すると、和製メジャー石油が唱えられたが、海外石油開発は失敗が続いた。そして、原発が日本の各地に作られる。列島改造計画が登場し、エネルギー問題が利権化していった。海外での日本の石油事業が失敗した理由は、情報の重要性を評価せずに、現場で知る兵用地誌を軽視して、中央集権的な指令方式に属す役人発想が君臨したせいである。
アマゾンKindleで無料公開中の拙著
『ゾンビ政体・大炎上』
日露戦争の教訓に学んだ第一次大戦までの日本人は、現場体験の重要性を認識しており、河口慧海の『チベット旅行記』(講談社学術文庫)、日野強の『伊利紀行』(芙蓉書房)、石光真人の『石光真清の手記』(中央公論社)を読めば、その実態がはっきりわかる。彼らがいかに誠実な人間で、自分にも社会にも正直に、真心を持って生きたことは、後世のために書き残した記録の中のメッセージに、真に日本人が誇る誠意として残っている。
宗教界に生きた人の中にも、大陸を探検した大谷光瑞がスケールの大きな足跡を残しているし、実業界には安田善次郎がいて、日比谷公会堂を国民に贈った。政治家には後藤新平がいた。彼らの偉業は百年を過ぎた時に多くの人に評価されるタイプで、明治生まれの心意気を教えるが、時流や人気を追わない志と信念には、自尊の精神が眩しいほど輝いている。
当時の日本には、彼らのような国際レベルの人物が存在し、世界に通用する活躍をした。だからこそ、天変地異の国難の中でも国民の多くは未来に託して、希望によって瞳が輝いていた。だが、同じ天変地異や不況下でも、フクシマ原発を爆発させて放射能を撒き散らし、政府や東京電力は嘘をつく有様で、現在の日本国民は信頼感を徹底的に損ない、閉塞感のために目は虚ろである。
戦後政治は吉田内閣の手で舵取りを進めて復興を遂げ、経済大国になったと言うけれども、成れの果ては原発地獄だ。ゾンビ政治の横行により、日本は亡国の色合いを深めている。
吉田茂の血脈に繋がって同じ遺伝子を持つ安倍晋三や麻生太郎が、日本の政治を私物化して国民を踏みにじる時代には、 戦後史の始まりの頃を思い出し、歴史の総括が必要ではないか。
藤原肇(ふじわらはじめ)
慧智研究センター所長、フリーランスジャーナリスト
『ゾンビ政体 ・ 大炎上』など著書多数
外交官から首相に上り詰めた吉田茂は、元勲・大久保利通の外戚で横浜出身の元駐英大使であり、敗戦直後の日本の政治においてワンマン宰相として君臨した。しかし、その正体は謎に満ちている。養父の吉田健三は、越前藩士の渡辺謙七の三男で、幕末に大阪と長崎で蘭学を学び、英国に密出国して留学し、帰国後は横浜の「英一番館」で働き「ジャーディン・マセソン商会」の支配人になった。
ジャーディン・マセソン商会は、中国・広州をはじめ上海や香港を舞台に、アジア貿易で巨大な富を蓄積した、英国に本社を持つ貿易商社である。前身は英国東インド会社であり、アヘン戦争では主役といえる役割を果たした。坂本竜馬で知られたトーマス・グラバーも、この会社の長崎代理店に勤め、武器や船舶の取引を行ない、「長州ファイブ」や薩摩の若者らの英国留学を手伝っている。
支配人を辞めた吉田健三は、独立して貿易で財を成して、横浜の豪商として成功しており、土佐の民権活動家の竹内綱から養子として引き取ったのが吉田茂だった。また、吉田茂の妻の雪子は第一次大戦後のパリ講和会議で全権代表を務めた牧野伸顕の長女で、米国で中学を出た牧野は、天皇を補佐する内大臣として、戦前の政治の背後で重要な役を演じた。 大久保利通の次男である牧野も外交官から官僚政治家になり、文部大臣や農商務大臣を歴任してから枢密顧問官を経て宮中に仕え、戦前の歴史に影響を残している。
そうした出自を持つ吉田は英米協調路線を保持、第二次世界大戦時には、戦争終結工作を行なった「ヨハンセングループ」の背後で、東條英機内閣の打倒運動を支えた。 一九四六年、敗戦の混乱の中で第一次吉田茂内閣は発足した。これに食い込んだのが白洲次郎だ。得意のキングズ・イングリッシュを活用し、終戦連絡中央事務局の顧問に就任、GHQを相手にして立ち回っている。そんな白洲に対するヨイショ本の山があるように、日本人の多くは幻惑され、野卑なアメリカ人を見返したつもりで鬱憤晴らしをしているようだ。しかし、いろいろな証言が示すのは、彼が日本人ではない、ということだ。
白洲はその後、貿易庁の長官に就任し、利権漁りに取り組んでいたが、背後に国際金融勢力が暗躍したことについては、鬼塚英昭が『白洲次郎の嘘』 (成甲書房)に書いたとおりだ。
この時期の日本を支配したのは「見返り資金」と呼ばれていた米国からの復興資金の流れであった。食料援助が「ガリレオ資金」で、資源関係が「エロア資金」と呼ばれた。管轄は大蔵省と外務省だったが、商工省を通商産業省に改組し、国鉄の電化と電力再編成に際してこの資金の流れを変更した時に、利権漁りする者が暗躍。四九年に下山事件が発生したのはその過程でのことだった。
そうした状況にあった五〇年に「日本輸出入銀行」が、五一年に「日本開発銀行」が発足している。資金難の企業に対し低金利で資金供給することにより、経済の活性化を狙ったものである。当時、蔵相と通産相を兼任していた池田勇人は首相よりも大きな権力を持ち、丸投げされた権限を使いまくり、経済再建のアクセルを踏み込んだ時に、朝鮮戦争が勃発したのである。
日本は戦争の後方の生産基地になったので、産業界は特需に見舞われ、米軍が戦争で買い付けた物資の総額は、五〇年から三年間の間に一〇億ドルに達したし、五五年までの五年間では四〇億ドルに近いものになった。この特需効果のおかげで日本経済は息を吹き返したが、繊維産業や軽工業に始まり、製鉄や造船工業が活況を呈して、エネルギー源は電力と石炭が景気浮揚の原動力として重要視され、集中的な資金投資が進んだ。
核エネルギーを地上に持ち込んだ愚かな判断
戦後、米ソの冷戦構造が強まるなかで、一九四九年にソ連が核爆発に成功、米国による原爆の独占体制が崩れた。アイゼンハワー大統領は国連で「核の平和利」の演説を行ない、原子力発電が政治課題になった。だが、原発は原爆の応用技術であり、さらに潜水艦の発電装置がベースであるように、軍事から転用した技術だし、実用化に程遠い段階だった。
そもそも核技術は、ナチスの原爆研究に対して危機感を抱いたユダヤ人が、アインシュタインらに頼み込み、米国政府に原発開発を懇願して始まった。それが「マンハッタン計画」で、史上最大のこの開発計画に一三〇〇兆円の予算を注ぎ込み、テネシー州オークリッジの濃縮施設と、ニューメキシコ州のロスアラモスで、原発開発と実験が極秘に進められた。
だが、核エネルギーの利用は、生命体がいる地球上において使うには愚かだし危険である。アインシュタインなどの科学者は、そこまで考える知恵がなかったということだろう。人間の寿命さえ長くても百年で、多くの生命は数年前後だが、生命が生きている地球に、半減期が二万四千年も長いプルトニウムを持ち込むことへの洞察力は皆無だった。
二十世紀は「物理帝国主義」の時代だった。つまり、数量化でき見えるものだけが総(すべ)てだと考える傾向が支配的であった。物理法則については理解しても、それを部分化し、知の地平を押し広げる宇宙法則を覚(さと)る人は少ない。
経済復興と原子力政策へのCIAの関与
一九五〇年代の日本は、湯川秀樹博士 の中間子理論がノーベル(物理学)賞をもらったことに大喜びし、原子力を利用しようと考え、政治家や商売人が頭を捻り、次の作戦に踏み出そうとした。読売新聞社主の正力松太郎は、政治権力のトップに立つためにマイクロ波通信網を作り上げ、原発開発をプロジェクトに仕立て、旗振り役を熱心につとめた。
正力はアメリカに媚を売り、CIAのエージェントを引き受け「ポドム」という暗号名まで与えられ、新聞を使い原発の推進を叫び、宣伝メディアとして五三年に日本テレビを開局した。おりしもゼネラルダイナミックス社が原子力潜水艦ノーチラス号を進水させ、ウエスチングハウス社製の原子炉がキャンペーンにもってこいだった。もちろん、読売新聞は全力を挙げて礼賛・宣伝した。
衆院議員だった中曽根康弘が渡米してハーバード大学のゼミに参加したのはその頃だ。そこで、後のニクソン政権下で暗躍するキッシンジャー助教授から核武装論を吹き込まれ、原子力について興味を強めた。しかも、中曽根を夏季ゼミに参加させ、キッシンジャーに結びつけたのは、ジョンズ・ホプキンズ大学が首都ワシントンに持つ「高等国際問題研究大学院」のセイヤー教授である。彼はCIAのアジア太平洋部長だった。
セイヤー教授は中曽根を核武装論者に仕上げ、間近に迫った保守合同の布陣における理論武装の手助けをした。そして、帰国した中曽根は大急ぎで原子炉調査予算案を作って二億三五〇〇万円の調査費を獲得し、日本の原子力計画が動き出した。愚かな原発路線の出発点として、五四基の原発が地震列島の上に作られた。
そして日本では五五年、それまで政党の乱立が続き、分裂していた社会党が統一したので、慌てた与党が財界に促され、自由党と民主党が保守合同し、五五年体制が始まっている。岸信介や正力松太郎の場合はCIAのエージェントとして行動したが、用心深い中曽根は政界に潜み、通産相や関連閣僚になり、行政面からのアプローチを使い、原発路線を核武装のために推進した。
経済大国の虚名に酔った日本の総括
日米安保条約の改定問題で賛否の対立が運動を盛り上げ、騒擾を伴った安保闘争が収斂した時に、所得倍増の池田勇人内閣が発足し、政治が経済至上主義に転じた。結果として経済は活況を呈し、東京オリンピック開催を迎え、東海道新幹線の完成をはじめとして、家電製品や自家用車が普及し、国民の生活は豊かさに包まれ、世界第三の経済大国になった。
大型ダムの建設計画が一段落すると、和製メジャー石油が唱えられたが、海外石油開発は失敗が続いた。そして、原発が日本の各地に作られる。列島改造計画が登場し、エネルギー問題が利権化していった。海外での日本の石油事業が失敗した理由は、情報の重要性を評価せずに、現場で知る兵用地誌を軽視して、中央集権的な指令方式に属す役人発想が君臨したせいである。
アマゾンKindleで無料公開中の拙著
『ゾンビ政体・大炎上』
日露戦争の教訓に学んだ第一次大戦までの日本人は、現場体験の重要性を認識しており、河口慧海の『チベット旅行記』(講談社学術文庫)、日野強の『伊利紀行』(芙蓉書房)、石光真人の『石光真清の手記』(中央公論社)を読めば、その実態がはっきりわかる。彼らがいかに誠実な人間で、自分にも社会にも正直に、真心を持って生きたことは、後世のために書き残した記録の中のメッセージに、真に日本人が誇る誠意として残っている。
宗教界に生きた人の中にも、大陸を探検した大谷光瑞がスケールの大きな足跡を残しているし、実業界には安田善次郎がいて、日比谷公会堂を国民に贈った。政治家には後藤新平がいた。彼らの偉業は百年を過ぎた時に多くの人に評価されるタイプで、明治生まれの心意気を教えるが、時流や人気を追わない志と信念には、自尊の精神が眩しいほど輝いている。
当時の日本には、彼らのような国際レベルの人物が存在し、世界に通用する活躍をした。だからこそ、天変地異の国難の中でも国民の多くは未来に託して、希望によって瞳が輝いていた。だが、同じ天変地異や不況下でも、フクシマ原発を爆発させて放射能を撒き散らし、政府や東京電力は嘘をつく有様で、現在の日本国民は信頼感を徹底的に損ない、閉塞感のために目は虚ろである。
戦後政治は吉田内閣の手で舵取りを進めて復興を遂げ、経済大国になったと言うけれども、成れの果ては原発地獄だ。ゾンビ政治の横行により、日本は亡国の色合いを深めている。
吉田茂の血脈に繋がって同じ遺伝子を持つ安倍晋三や麻生太郎が、日本の政治を私物化して国民を踏みにじる時代には、 戦後史の始まりの頃を思い出し、歴史の総括が必要ではないか。
藤原肇(ふじわらはじめ)
慧智研究センター所長、フリーランスジャーナリスト
『ゾンビ政体 ・ 大炎上』など著書多数