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第八章 大杉栄と甘粕

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日蔭茶屋から日影茶屋への時代の変遷

藤原 だいぶ以前のことだったと思うのですが、食事をしながら小串さんの思い出話をうかがった時に、関東大震災の時のドサクサに紛れて虐殺された、アナキストの大杉栄に良く出会ったという話を聞きました。
そこでお願いですが、今日はその話をもう一度じっくりと聞かせて頂きたいのですが……。
小串 そうですか。実は大杉栄と会ったのは未だ子供だった頃です。不思議な縁とでも言ったら良いのでしょうか、彼は東京外語のフランス語科を卒業しており、三十年ほど遅れて外語のフランス語科に入ったので、いうならば、私は後輩になったという関係になります。しかも、私は子供の頃に逗子に住んでいたので、葉山の日蔭茶屋という割烹旅館に滞在していた大杉さんに何度も出会っているという体験をしています。
藤原 小串さんと大杉栄とが不思議な縁で結ばれているとしたら、今の私はそれ以上の因縁があるみたいであり、実は今度の訪日の前に作家の小島直記さんから手紙が届き、「逗子の日影茶屋でお食事を差し上げたいので、滞日中に時間が取れるなら連絡を頂きたい」というお招きを受けました。そんな有難い招待が縁結びになりまして、数日前に逗子に出かけ葉山の日影茶屋で鮮魚料理をご馳走になりました。
小串 そうですか、それは良かったですね。日蔭茶屋の料理ならば最高のもてなしであり、あなたも得難い経験をなさったことになります。

藤原 幸運でした。また、大杉栄が利用していた頃は日蔭茶屋として、割烹と旅館を兼業していたということですが、戦後は看板を日影茶屋に改めて料理屋だけになり、同じ発音でも営業内容が変わったのだそうです。そういえば、大杉が殺された関東大震災から既に八十年ちかくも経っており、「明治は遠くなりにけり」というが大正も遠くなって、時代の移り変わりには目を見張るものがあります。

特高の尾行付きの大杉栄に続く東郷元帥の散歩姿
藤原 そこで食事をしながら大杉栄や甘粕正彦が話題になり、フランス物産の総支配人だった頃の小串さんが、パリで私を息子のようにして下さったことを始め、東京外語の先輩の大杉栄に葉山で何度も会った話が出ました。そこで、今日は小串さんが大杉栄に会った時の模様について、より詳しい説明をして欲しいのですが……。
小串 そうでしたか。私が未だ小学校の一年か二年生の頃でしたが、母親に連れられて良く葉山の海岸を散歩しまして、その途中で大杉栄に何度も出会ったのです。向こうから難しい顔をした小父さんが歩いてきまして、軟禁されているのかいつも後ろに特高警察が付いており、それが大杉栄という人だと知ったわけです。
藤原 特高警察は制服ですかそれとも私服でしたか。また、大杉は洋服ですかそれとも着物姿でしたか。
小串 着物姿でブラブラと散歩しているのです。大杉栄の後ろに付き纏う特高はもちろん私服ですが、別に隠れて尾行しているのではなくて、そばに近づいたり離れたりで黙って歩いているのです。大杉栄も監視されているのを知っているから、自分のペースで散歩しているわけであり、ボディーガードのつもりかも知れません。
藤原 当時の大杉は日蔭茶屋を仕事場にしていて、そこに愛人たちが訪ねて来て泊まったりしていたことは、大杉の『自叙伝』(岩波文庫)に書いてあります。彼は四谷の家に妻の保子を置き去りにしており、本郷の菊富士ホテルでは伊藤野枝と同棲しながら、仕事部屋にしていた日蔭茶屋の三階の部屋に、時々だが愛人の神近市子が訪れたりして、実に奇妙な四角関係で絡み合った生活をしてます。

小串 アナキストだった大杉流の自由恋愛でしょう。話を散歩の場面に戻しますと、いつも向こう側から特高付きの大杉栄が近づいて来るので、それを見ると私の母が「あの小父さんは悪い人だから、近づいてはいけません」と言って、手をぐいぐい引いて横道に引っ張って行くのです。どうして悪い人か良く分からないから、きっと伝染病でも持っているのだろうと思い、私は恐い人だという印象を強めました。そして暫く行くと今度は散歩している東郷元帥が近づくので、そうすると母親がニコニコ顔になって、「あのお爺さんは良い人だから、お辞儀をしなさい」と言うから、近づいて行って「小父さん今日は」と挨拶すると、「おお、坊や元気かい」と頭を撫ぜてくれるのです。そんなことが何度もあつた記憶が鮮明に残っていて、これが大正時代の思い出になっています。
藤原 東郷元帥も逗子に住んでいたとは面白いですね。
小串 海軍の拠点だった横須賀や久里浜に近いので、逗子の町に隠棲したのでしょう。
藤原 それで、小串さんは逗子のお生まれですか。
小串 生まれたのは山梨県ですが・赤ん坊だった頃に父が転勤になったので、逗子で子供時代を過ごしたのです。というのは、父が「真白き富上の嶺」の歌の遭難事故で有名になった逗子開成中学の国文の先生をしていました。関東大震災で家が潰れて東京の滝野川に引っ越し、西ヶ原にある東京外語のフランス語科に入ったので、恐い小父さんだった大杉栄の後輩になったということです。

パリに繋がる東京外語のフランス語科人脈
藤原 大杉が学んだ東京外語フランス語科と言えば、読売新聞のパリ特派員だった松尾邦之助さんも、小串さんと同じフランス語科の出身ですが、私は彼からフランスの新聞の読み方を教わりました。
小串 松尾さんは大先輩でお世話になっており、私が学生だった時ペンパルを持つのが流行していて、丁度その頃に彼がパリに駐在していたので、ベンフレンドを捜してもらったりしました。松尾さんがパリの新聞に広告を出してくれて、山のような返事の手紙が学校に届いたので、クラスの仲間と手分けして相手を選びました。 そして、「自分はフランソワーズとマリアンヌにする」とか「君はアンリエットにしろ」と言う具合に、女の子だけを選んで分け合ったことを覚えています。

藤原 私も中学生の頃にアメリカやフランスにペンパルを持ち、苦労して手紙を書いた思い出があるが、同じように女性を文通相手に選びましたよ。
小串 いつの世でも男の子の考えることは似ていて、異国のマドモワゼルと文通することに憧れを抱き、外国に行く夢の実現を目指したものです。今時の若者には余りはやらないかも知れないが、昔は外国が非常に遠い存在だったこともあり、海の彼方の国に対して大きな憧れを持ちました。だから、外国に行けるということが最大の理由になって、私も三井物産に入社したのですが、最近の若い人は海外に転勤になると聞くと、会社を辞めるという人が商社でも増えているそうです。
藤原 私の青春時代は未だ海外渡航も制限されていて、外国に行くこと自体が憧れの的だったが、先ずは言葉の勉強をすることが先決でした。私は中学生の頃にフランス語の独習を始め、高校の2年から大学生にかけて市ヶ谷の日仏学院に行き、一般教養の授業をカトリックの神父から受け、彼らの博識ぶりや議論好きに驚きました。ユーゴやモリエールの訳読に苦労しましたが、仏文和訳などは武者小路実篤の戯曲がテキストだし、授業の中にフランスの新聞購読というのがあり、松尾邦之助さんの手ほどきで『フィガロ』や『ル・モンド』を読み、一年ほどじっくり生きた言葉の訓練を受けました。

小串 松尾先輩はサムライ記者だったから、パリでは人生を大いにエンジョイしたようで、エッセイ作家として軽妙な本をかなり残しています。
藤原 彼がフランス娘と同棲していた青春賛歌を始め、エロスにまつわる面白い本を書いていたので、甘美な生活を楽しんだのは確かでしょう。それを画家の藤田嗣治やパトロン男爵の薩摩次郎八と重ね合わせて、パリの生活のイメージを思い描いたものです。でも、ある日のこと洗足池の近くの松尾家を訪ねて、松尾さんもパリ戻りの明石元二郎と同じであり、日本では実に地味な生活をしていました。
小串 当時の日本人は単身赴任で外国に出かけたから、向こうでは同棲でも冒険でも何でも自由気儘だったが、日本に帰国すれば世間のしがらみの中で、永井荷風や南方熊楠のように日本化して、土俗的にならざるを得なかったのでしょう。

後藤新平内務大臣のスパイだった大杉栄
藤原 大杉栄と一緒に殺された伊藤野枝は個性的な女性で、福岡から上京して上野高等女学園の生徒だった時に、教師だった辻潤と同棲して大スキャンダルになり、その後に辻と結婚して息子を二人つくっています。そして、次に大杉栄と同棲関係に入って子供を二人生み、中でも有名なのは「魔子」と名づけた娘です。
小串 辻潤はオスカー・ワイルドの小説を翻訳して、ダダイストとして一世を風靡した作家ですね。大杉栄と一緒に殺された伊藤野枝が、辻潤の妻だったとは迂闊にも知らなかったけれど、辻さんもパリに足跡を残した文化人です。

藤原 松尾さんから聞いたように思うのだが、辻潤は読売新聞の海外文学特派員の肩書きで、パリに常駐して活躍していたらしいです。何か辻のパリでの話について聞いたこととか、それに関連した本について御存じないですか。
小串 松尾さんは大学もパリ生活も大先輩だが、それよりも古い時代のことだから私は良く知りません。しかし、辻の愛人だった伊藤野枝が日蔭茶屋にいた所に、神近市子がやって来て話がこじれてしまい、大杉が神近に刺されたのが葉山事件です。
藤原 刺される直前に大杉が後藤内務大臣の所を訪れて、三百円の資金を内密に貰って来た話は、『自叙伝』の中に書いてあるから知られており、これが大杉スパイ説の根拠になっています。後藤新平は板垣退助が岐阜で演説している時に、襲撃されて「板垣死すとも自由は死なず」と叫んだ現場に駆けつけ、医師として治療をした経験の持ち主です。
 しかも、各地の県知事を歴任した安場保和の次女の和子を妻に持ち、愛知県病院に勤務していた若き日の後藤は、恩人で岳父の安場の引きで中央官界に出たのだし、この安場は横井小楠の弟子でもありました。また、福岡県知事だった安場を玄洋社の頭山満や杉山茂丸が尊敬し、しかも、後藤が民生長官として仕えた児玉源太郎総督に対して、政界の大黒幕だった杉山茂丸が私淑していたのです。
小串 じゃあ、後藤の人脈は高野長英だけでなく、横井小楠にまで広がるわけですね。

藤原 しかも、夜『明け前の朝日』(鹿砦社)の中に書いてあるが、後藤が名古屋時代に作った娘の静子の息子が、メキシコに渡った左翼演劇家の佐野碩であり、彼は画家のシケイロスと組んでトロツキー暗殺に関連しスターリニストだったと考えられています。また、静子が結婚した医者の佐野彪太の兄が佐野学で、野坂参三とは遠戚関係で繋がっており、野坂の身内は神戸のモロゾフ製菓の筋でして、その周辺には警保局長や特高課長が多くいる。しかも、後藤新平は凄い国際感覚と政治手腕の持主だから、弾圧し易いようにシンパを結集するために、共産党を組織してスパイを潜り込ませたり、ソ連の外交官ヨッフェと親交を結ぶことで、英国流の帝国主義の実行を試みています。
小串 後藤新平は初代の総裁として満鉄を育て、日本における東インド会社にしようと考えたのだし、その延長線の上に満州国が作られたのです。

大杉栄の渡仏とパリに錯綜するスパイ人脈
藤原 そうです。ただ、当時の日本は軍事至上主義に毒されていたし、民主的な植民地経営を実現するためには、ソフトの分かる人材が不足していたために、秘密警察によるスパイエ作と思想統制によって、全体主義国家にと偏向してしまったのです。
小串 後藤新平が野坂参三や佐野学などを効果的に使い、共産党を作ったという藤原さんの仮説は、これまであなたが著書で強調していたから、ここでは素直に受け入れて置くとしましょう。そうなると、伊藤野枝が大杉栄の内妻になったのは、純然とした恋愛ではなくてスパイのためであり、「くの一忍法」であると考えるわけですか。

藤原 さあね、その辺は個人の内面問題に関係するので、本人以外がこうだと断定するわけには行かないし、大杉栄だってそこまで疑わなかったから、何人も子供を作って可愛がったのだと思います。また、金を渡すことで大杉の軟化を試みるように、後藤に入れ知恵したのは杉山茂丸だろうし、杉山ならそれくらいの工作は朝飯前に等しく、太っ腹の後藤なら一つ返事で了承したに違いありません。しかも、大杉のフランス行きの半年前に日本共産党が誕生しており、アナキストとはいえ大杉はボリシェビキと一緒に、協力してやっていけると信じていたことは、後藤が考える路線と共通していたから、スパイの秘密任務を引き受けていたかも知れません。
小串 後藤のスパイである伊藤野枝の影響もあり、大杉がフランスに特殊任務を帯びて渡ったとなれば、その目的はどんなものだったのでしょうか。
藤原 今の段階ではあくまで仮定の推論だが、陸軍のシベリア出兵の背後関係を始め、フランスのフリーメーソン(大東社)の動きについて、調べることだったのではないかと思います。だが、脇が甘くじっとしていられない大杉は、ボルトーマイヨーに近い日本人会への出入りを始め、パリに住む多くの日本人画家とつき合い、持ち前の派手な行動を大胆な形でやったわけです。しかも、第一次大戦後の円高のお蔭で当時のパリには、二百人を超える日本人画家が住み着いていたし、その頂点に立つ藤田嗣治は陸軍に頼まれて、怪しい日本人に対しての監視をしていたのです。

小串 あの藤田画伯が陸軍のスパイ役とは不思議ですね。
藤原 ちょうどソ連邦が誕生したばかりであり、シベリア出兵がらみで後藤外相が動いたし、当時パリにいた佐藤紅緑は大杉に会った時に、後藤新平の支援で渡仏したのかと聞いたほど、国際関係は非常に流動的だったのです。だが、そんな微妙な情勢を無視する大杉の大胆な行動は、彼一流のスタンドプレーヤー的性格のせいで、メーデー集会で演説を試みて警察に捕まり、パリの南のサンテ刑務所に拘留されてから、国外追放ということで放免になり帰国したわけです。また、大杉が日本に帰国して二ヶ月後に関東大震災が起き、その時に彼は伊藤野枝や甥の橘宗一と共に、東京の麹町憲兵隊で虐殺されています。

小串 下手人は憲兵大尉の甘粕正彦だと言いますね。
藤原 ええ、そう言われています。ほとんどの歴史書には甘粕が殺したとあるが、彼が真の下手人だったかどうかは大いに疑問です。むしろ、甘粕大尉が殺人の罪を負って服役したので、陸軍全体に対して貸しを作ったことにより、その後の地歩を築いたような感じがします。だから、釈放されてから満州に渡った甘柏は、協和会の総務部長に就任することによって、新天地を築き上げる足場にしたと思います。
小串 甘粕が殺人犯ではなかったとすると、歴史を書き換えなければなりませんね。

甘粕大尉が大杉栄たちを虐殺したという歴史の虚構
藤原 そうでしょう。特に満州国に対しての関東軍の支配において、甘粕正彦の果たした役割と軍事謀略については、もっと詳しく調べ直す必要があります。五族協和と王道楽土の建設を理想にして働いた、多くの真面目な人々の希望を砕いたのが、満州に新しい利権を築いた高級官僚や軍人たちであり、岸信介を筆頭にした植民地官僚を始め、板垣征四郎の狂信思想に毒された軍人たちは、亡国路線に大日本帝国を導いたのです。
小串 そうなると甘粕の位置づけはどうなりますか。
藤原 今の段階では未だ十分な事実分析がなされておらず、甘粕大尉が虐殺の下手人でないなら、なぜ責任を取って服役したのかという理由や、刑期の三年間を本当に刑務所の中にいたかは、徹底的に調べ直さなければいけません。当時は第一次世界大戦後の混乱の時期であり、ソ連の成立でコミンテルンが発足したので、陸軍のシベリア出兵の後始末のやり方を始め、満州国が成立するまでに至るプロセスが、どのようなものであったかについて、世界史的な視点で検討することが必要です。

小串 私が生まれたのが大正三年(一九一四)ですから、中学の途中までは大正時代に生きたわけで、殺される前の大杉栄も目撃できたのだし、時代の空気は子ども心にも良く覚えています。そして、大正時代というと白樺派や民本主義を考えて、直ぐに大正リベラリズムを思い浮かべますが、前半の日本は戦争景気で賑わったにしても、後半期は恐慌や関東大震災が起きて大変でした。だから、一九八〇年代のバブル景気で沸き立った後で、十年以上も続いている大不況の日本の姿は、大正時代の生き写しに他ならないし、この数年間は既に昭和の大不況と重なっていて、大変な時代なのに誰も自覚していません。
藤原 ジャーナリズムが堕落して真実を伝えないから、日本人は自分たちが置かれている状況に対して、どれだけ危機的であるか気づかないのです。日本政府を始め銀行や企業も債務超過であり、破産状態に陥っているだけでなく、政治もまともに機能していないという意味では、今の日本は幕末の幕府より酷い状態です。ところが、経済大国の幻覚から未だに覚めない日本人は、支離滅裂で政治がまともに機能しなくて、日本の外交能力は北鮮よりも酷いと世界が見ているのに、そんなお粗末な小泉内閣を支持し続け、日先だけの人気取りに完全に騙されたまま、亡国の淵に引きずり込まれています。
小串 前の森首相が余りにも愚劣すぎたから、その反動で小泉首相の人気が高くなっただけで、野党の民主党が情けないほど腰抜けなために、潰れて当然の政権が生き長らえているのです。小泉首相は細かいことは実に熱心にやるが、大局的なことは考えない一種のオタク族の仲間で、わが社なら課長止りの人材すから、そんなレベルの人に首相をやらせるのは可哀相です。

無政府状態の擬態としての日本政府
藤原 今の政治家に見識を求めるのは無いものねだりだが、田中外相(当時、以下同じ)には常識や歴史意識が欠けていたし、あれほど凄まじい自己中心的な人間に、外交を任せた小泉首相の判断力のなさは、無政府状態に等しい政治の断末魔です。一国の存亡を決定づける外交の場において、あんな酷い被害妄想に支配されたオバさんが、最高責任者の地位を弄んでいるというのは、日本の運命にとって致命的なことです。歴史を見れば似たような愚行の例があり、オレゴン訛の英語を喋った松岡洋右外相は、誇大妄想でスタンドプレーを得意にしたが、中華民国の顧維均外相に強い劣等感を持ち、日本の運命を徹底的に 狂わせています。
小串 そういえば、顧維均外相はウエリントン・クーとも呼ばれて、名外交官として松岡外 相を議論でキリキリ舞いさせ、国際連盟で名外交官ぶりを謳われましたな。
藤原 コロンビア大学を出て仏独英語を流暢に喋る顧外相は、国際政治を専攻して学位を 持つだけでなく、外交官として洗練されたマナーを身につけ、格調高い論理で、松岡外相を論破しています。出たとこ勝負を得意にする松岡外相は、満州問題の討論で顧外相の論 理に追い詰められ、国際連盟を脱退して世界の孤児になり、挙句の果ては日独伊三国軍事 同盟を締結して、大日本帝国を滅ぼしてしまいました。

小串 しかし、政治家としての能力では松岡洋右が遥かに上で、松岡と田中では全く比較 にならないし、中年女の気紛れによるヒステリー症は、見るに耐えないことばかり目につ きます。平気で次から次に嘘を言う田中外相は、とても外国の要人から信頼を得られない し、国家の信用を損なうという意味からしても、即座に首を切るのが日本のためです。ところが、奇妙な応援団が田中真紀子の周辺にいて、田中外相を批判すると過剰な反応を示し、抗議の電話やファックスが押し寄せるのです。税金を払ってこんな愚劣な茶番劇を見せられたのでは、いやはや長生きはしたくないと思いますな。
藤原 世論調査で幾ら高い人気を誇るとはいえ、人気で政治をやろうというのは本末転倒であり、そんな安易な考えは亡国に至る落とし穴です。近衛文麿首相が人気で政局を乗り切ろうとした時に、最後の元老だった西園寺公望元首相が、「今さら人気で政治をやれると思うのは、軽率の極みだ」と言ったそうです。内閣支持率という人気だけを頼りにして、優先順位の高い肝心なことは何一つやらず、巧言令色に明け暮れる小泉内閣は、腐り切った自民党の利権政治を粉砕する前に、日本を破滅させてしまいそうで心配です。
小串 私もそう思います。太平洋戦争において敗戦を前にした時でさえ、今の迷走状態の政治よりは遥かにマシだったし、黒船の出現に動転した幕末の時だって、今の小泉内閣よりは政治も外交も機能しています。何度も口にして耳障りかも知れませんが、こんな情けない醜態を目撃するなんて、長生きはしたくないという思いひとしおです。

藤原 世界に対して恥ずかしい人物を外相に選び、失態の責任を取らせられない小泉首相は、売春防止法で逮捕歴を持つ森喜朗と並んで、日本の憲政史上における最低の首相として、記録に残る破目に陥るのではないでしょうか。

小串 私もそんな気がします。でも、日本の政治は完全なまでに腐り切っていて、国民は政治改革を是非やって欲しいと期待しているし、実行しそうなゼスチャーを示すために、小泉内閣は高い支持を集めているのです。しかも、田中真紀子が全面的な支援をしたお蔭で、小泉純一郎は総裁選挙において勝てたから、田中外相をカンバンにしていることもあって、簡単に首を切れない悩みがあるのです。しかし、こんな次元の低いことで無政府状態を放置すれば、日本は国際政治から取り残されるだけです。

政治家が隠蔽する不祥事を追及しないメディアの怠慢

藤原 小串さんはパリを始め世界各地で仕事をして、三井物産の総支配人を歴任して来たお蔭で、海外の日本人社会の裏話に詳しいと思うが、親が財界や政界の有力者である子供たちの中に、変わり種に属す者がいたのを御存じでしょう。色んな形で不祥事やスキャンダルを起こして、ほとぼりが冷めるのを暫く待つ目的で、留学の名日で外国に出てきた例がかなり多く、それを身近に知っていると思うのです。私が留学したグルノーブルの場合でも、変な行動をして妙な噂を持つ人がいたので、パリの場合は世界の流れ者の吹き溜まりだから、そんなケースも多かったのではないですか。

小串 秘書と駆け落ちして来た政治家の娘とか、ヤクザに編された売れっ子の女優を始め、傷害で海外逃亡中の大会社の社長の息子や、刑務所代わりにパリにいる閣僚の御曹子など、商売柄いろんな話を腐るほど聞いています。もっとも、ちゃんと勉強している留学生も随分いて、当時の日本人は真面日な人が多かったが、流石にパリは別天地と言われているだけに、中に指名手配の人も混じっていたでしょうな。

藤原 今回の訪日で昔の経歴を知ったせいで、三十年あまり前の話で思い当たることがあり、読者の新聞記者に過去を調べてもらい、確証を得た実に興味深い話があるのです。
パリで一緒に食事をした人の話の中に、閣僚の息子で婦女暴行で捕まった男が、留学という名目でロンドンに来ており、余り勉強もしていないと言うのです。防衛庁だか自治庁だか記憶にないのだが、大した役所ではなかったことは確かで、今回の訪日で小泉首相が三十年前にロンドンに留学し、親父が防衛庁長官だったと知りました。この線は何か臭いと直観的に感じましたが、小泉も橋本龍太郎と同じ慶応ボーイだし、政治家の二世や三世だという点で、尻癖が悪くても不思議ではないです。

小串 婦女暴行罪で警察沙汰になったとすれば、そう簡単に済むことではありませんが、パリには男女問題で逃避している人は多かったし、オランダ人の女学生の肉を食べたために、国際問題を起こした留学生もいました。だから、婦女暴行や強姦ていどの猟奇事件は、人の噂も七十五日という程度のことで済み、これはパリもロンドンも同じでしょうな。

藤原 でも、万が一にそれが小泉純一郎の過去だったら、フィーリングを売り物に女性の人気を集め、高い内閣支持率を集めている偽善は、糾弾されて然るべきだと思います。そこで親しい新聞記者に糾弾の可能性を聞いたら、ある新聞社が調査したという話ですが、警察のガードが予想以上に固いために、非常に難渋していると言うのです

小串 最近の日本のメディアは全く無気力で、痛快なスキャンダルの発掘をしないために、私もいささか退屈しているところであり、この閉塞感を吹き飛ばして欲しいですな。

藤原 今の日本は司法界が腰抜けであるために、「噂の真相」が森首相の売春防止法違反を追い、警視庁に検挙された過去について調べ、犯歴番号や指紋番号まで報道したのに、警察は保有情報の公開を拒絶しました。お蔭で噂の真相社は名誉棄損の裁判に負け、東京地裁から和解と罰金を申し渡されたが、東京高裁に控訴して戦うようです。

小串 しかし、首相になった人が破廉恥罪で検挙歴を持ち、警察にはっきり記録が残っているのに、圧力をかけ情報の隠蔽をしただけでなく、逆に名誉棄損で訴えたというのは、盗人たけだけしいと呆れ果ててしまうね。全く道理に合わない不将な行為だのに、日本の新聞や雑誌は事件の真相を追及して、こんな人物を首相にした責任を問い、狂っている日本の政治の姿を明らかにして、国民の審判を問わないのか不思議です。

権力者のしたい放題が罷り通る平成幕末の日本

藤原 売春防止法違反で検挙された森喜朗の場合は、彼が中曽根内閣の文相になっているだけに、教育界への悪影響の点で実に悲惨であり、子供たちへの示しが付かないだけでなく、荒廃した教育の現状を象徴していました。ところが、首相と呼ぶのも恥ずかしい森は居直って、破廉恥罪で検挙の過去の否定だけではなく、嘘八百を並べ立てて偽証を重ねたし、噂の真相を名誉棄損で訴えたのだから、全くあきれ果てた根性だと思います。

小串 最近は強盗や詐欺師を政治家に比較すれば、あんな連中に較べるなと怒られるほど、政治家の評価が低くなってしまいました。それは責任感の喪失と素行が悪いせいであり、利権漁りで心が卑しくなったためですが、立派な顔の人が余りいなくなりました。それにしても、売春防止法で逮捕された過去を持つ人が、首相になるとは全く世も末ですな。

藤原 森の破廉恥な過去をスクープしたのは、神戸新聞の記者を辞めてトップ屋になった、西岡研介という若いフリー記者ですが、噂『の真相トップ屋稼業』(講談社)と題した本を書き、取材の経緯についてレポートしています。それによると森が検挙された犯歴は、警視庁の犯歴照会センターに保存されているが、東京地裁の裁判長が提出を要求したのに、警視庁はそれに対し拒否回答したのです。それで東京地裁は腰砕けになり、「売春容疑に対しては原告、被告ともに、確かな証拠を提出したとは言えないため、判断の対象外にする」という、実に無責任な判決を出しているのです。証拠は警察が隠して出さなかったのであり、日本では情報公開が行われていないだけでなく、明らかに隠蔽しているのが分かっても、裁判所もマスコミも見て見ぬふりをしました。

小串 そんな出来レースが横行しているようでは、社会正義などおよそ期待できるわけがないし、悪人は好き放題をやり安心して高鼾ですな。

藤原 警察が権力の忠実な番犬の役目を果たし、国民の信頼を裏切ったのは確かですが、西岡記者の熱心な取材活動に協力して、内部情報を提供したのは現職の警察幹部で、たとえ一部でも正義感を持つ幹部がいたのは、腐敗している日本の警察にとって救いでした。しかも、その幹部は森の犯歴番号の数字だけでなく、左手と右手の指紋を示す番号の数字が、七七九六七と七九九九七だということまで、西山記者にそっと教えているのです。

小串 それでも森は警察に圧力をかけて、過去の犯罪の露見を防いだわけですか。

藤原 上に立つ昔が破廉恥罪を犯したならば、潔く責任を取って辞任するのは当然だが、それさえ放ったらかしのままであり、世界中から政府が物笑いになっているのに、日本人は未だに気づかないでいるのです。 今の日本は風紀紊乱と網紀の緩みで、亡国の危機の中で痙攣しているから、国民の信頼関係が崩れてしまいました。

小串 信頼関係が崩れたので将来が不安であり、身を守るために誰もが無駄な出費を控えるから、景気が一向に良くならないのは当然です。

藤原 そんな森政権を支えていたのが小泉であり、その小泉が首相になって人気稼ぎに明け暮れ、ことによると新たな情報の隠蔽が始まって、日本は更なる亡国の混乱で呻吟するのです。大震災があった大正の末期の日本で、大杉栄も甘粕正彦も刑務所に入っているが、甘粕の場合は本当に殺人者かどうか疑間であり、二人が共にいわれなき罪で服役したとしたら、日本が法治国家という幻想は空中分解です。

小串 しかし、大杉栄が後藤新平から金を受け取ったことが、スパイだという論法に従うならば、政治家は圧力団体や政商から献金を受けるので、一種のスパイ役をしていることになるから、金の動きには細心の注意が必要ですな。

大杉栄の虐殺を巡る甘粕大尉の謎と大杉のフランス探訪旅行

藤原 懐柔目的に金を貰えばスパイと同類であり、復古主義を主張しているご用文化人たちは、権力に小遣いを貰って動いている点で、現代版のソフトなスパイに相当しています。藤田嗣治画伯だって陸軍に金を貰ったので、スパイだったと言う人もいるわけだし、名日はベルリンの「国際アナキスト大会」への出席だが、大杉栄がパリに行ったのは後藤新平に、調査を頼まれたとも言われています。どこまでがスパイ行為かは厳密に区別できないが、大杉は後藤新平の指示を受けて渡仏し、かつて甘粕がたどった足跡を探るために、フランスで行動したと言われています。

小串 でも、それは変です。甘粕大尉は大杉栄たちを殺した罪で服役し、関東大震災の四年ほど後に奥さんと一緒に、初めてフランスに渡ったのであれば、甘粕大尉の足跡を探るための旅行というのは、どう見たって辻棲が合わないと思います。

藤原 それは通説に従った甘粕の捉え方であり、彼の公式記録は一九一五年から一八年にかけて、二年間にわたって記録の欠落があるから、一九一七年頃に最初の渡仏をした可能性があります。それを追及したのが落合莞爾であり、彼の「陸軍特務・吉薗周蔵の手記」によると、甘粕は一九一七年頃に最初の渡仏をして、フリーメーソン(大東会)に入会しています。だから、通説や角田房子の『甘粕大尉』(中公文庫)が言うような、出獄後九ヶ月経った一九二七年二月に、初めて渡仏したという記述は疑問符付きであり、その辺のきちんとした検証が決め手でしょう。

小串 もしそれが事実であると証明されれば、大きな歴史の謎が解明されることになり、大正時代の日本史が書き換えられますね。

藤原 吉薗周蔵が残した手記の解読によると、甘粕は上原勇作元帥の忠実な手下であり、スパイとしての特殊任務でフランスに行き、ヨーロッパ工作を密かにやったようです。上原元帥はフォッシュやフォン・マッケンゼーと並んで、近代戦史における三大元帥と呼ばれていて、日本陸軍が生んだ異才だと言われています。
 彼は若い頃に野津道賓少佐の玄関番をして、大学南校に学んでから陸士を首席で卒業し、フランスに留学した経歴の持ち主であり、陸軍が始まって以来の読書家だったそうです。

小串 上原元帥がフランス派の鬼才であり、大読書家だとしたら油断できませんな。

藤原 そうですね。また、運命の不思議な巡り会わせになるが、彼は私が留学したグルノーブルの山岳師団に配属され、工兵隊の指揮をした後で日本に帰り、陸軍の要職を全てにわたり歴任しています。
 しかも、上原が留学中にフランス人との間に娘を作り、このハーフの娘が甘粕正彦の愛人になりまして、最初に渡仏した時に親密だったことが、落合莞爾の努力によって検証されているのです。

小串 歴史の謎を追うと奥行きが実に深いから、頭がくらくらするような気分に支配されるが、本当にそんなことがあるとすれば、隠れた真相の解明は興味が尽きませんね。

藤原 だからわれわれの行く手には未知の地平が広がり、困難を乗り越えてチャレンジすることによって、新しい歴史を書くことが可能になるのです。


(基本参考資料)
(A)「戦時宰相論」 中野正剛
(B)「小泉純一郎の破廉恥事件における日本のメディアの腰抜け」 藤原肇
(C)「二つの亡国時代における日本版『離騒』の顕現」 若月弦一郎 (評論家)

章末列伝「ゲストの横顔」
小串正三(おぐし・まさみ)

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