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書評 : 『戦後史の中の国鉄闘争』/当事者の肉声から闘いの実相に迫る

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投稿者:高井弘之

この間の「コロナ第二波」状況において、政府は、財界―経済支配層の利害を反映して、安全を名目とする国民の管理・統制を一定緩める傾向にあるが、いまなお私たちはその呪縛の中にある。以下、少し長くなるが、この件について書いてみたい。

◆ここで私たちがまず認識しておかなければならないのは、「コロナ対策」は、ひとり一人の「個人」のために行われるのではなく、国家「全体」のために行われるものであるということである。それは、政府・自治体が日々、全体の「感染者数」に最大の焦点をあて、その数を発表し続けていることからも明らかであろう。「対策」の目的は、この全体数を減らし、社会「全体」から「感染状況」を収束させることであって、個人の救済などではない。たとえば、美馬達哉氏は次のように述べている。


――日本政府が重視しているクラスター(患者集団)対策は、積極的疫学調査による「接触者追跡」すなわち感染者との接触者を追跡して感染の可能性のある人を探すことを指している。・・/・・この手法の目的は、個人の病気の治療ではなく、人口集団としての社会防衛のために感染の経路を知って拡大を予防することなのだ。こうした公衆衛生的な手法は、医療の一部として行われているが、「病者が健康回復のために診療を受ける」という意味での診療とはまったく異なっており、社会を防衛するための医療なのである。―― (『感染症社会―アフターコロナの生政治―』)

ところで、全体主義の簡単で基本的な定義は次のようなものだろう。

――全体主義とは、個人の利益より全体の利益を優先し、個人が全体のために従属しなければならないとする思想/(全体主義国家では)「全体」の目的達成のために国民の自由や行動が制限され、国民は「全体」つまり国家のために力を尽くすことが求められたのです。そして、個人の利益は「全体」の目的を達成することでしか得られないとされました。――(ネット『リベラルア―ツガイド』より)

これを、ここ数か月続く「コロナ対策」状況を想起しながら読んでいただきたい。「コロナ」をめぐる状況は、この全体主義「定義」にほぼ重なるのではないだろうか。「安全のための全体主義」あるいは「安全への全体主義」とでも呼べるだろう。

思うに、いまなお、「お上」―国家に忠実に従うことの多い「日本人」にしても、ただ、「『全体』の目的達成のために国民の自由や行動が制限され、国民は『全体』つまり国家のために力を尽くすことが求められた」のでは、さすがに従わない人も多いかも知れない。しかし、この感染症をめぐる状況は、「個人の利益」、つまり、「個人の安全」は、上に言うように、「『全体』の目的(―感染者数を減らすこと)を達成することでしか得られない」と感じさせる。ここに、国家が「安全」を大義名分にして私たち市民・民衆の自由や権利・生活に介入し、統制してくることに抗う困難さがあると言えるだろう。

◆実は、この、感染症からの「安全」をめぐる問題に対するときの私たちの困難さには、「防衛―軍事」の問題に対するときのそれと共通性がある。国家が軍備―軍事体制を強化・拡大するときの大義名分は、常に、「国民の安全を守るために」である。そして、その名分を成立させるためには、国家―政府は、架空であれ、国民に対する危険の存在を示さなければならない。さらに、自らの軍事政策への支持を獲得するためには、その「危険」への国民の「不安・恐怖心」を駆り立てなければならない。そして国民の多くは、その「危険」を信じ、自らの「安全」のために政府の軍事政策とそれに関わる統治を支持する。

ただ、軍事と安全の間にあるこのような「からくり」に対しては、すでに私たちの側に一定の「免疫」もあり、政府の宣伝―扇動をすんなりとは受け入れない人たちも少数ではあれ存在する。また、この「からくり」を切開し、暴いていく方途も持つ。

たとえば、近年、政府・マスメディアによって、日本を攻撃して来る「危険な存在」に仕立て上げられ続けているのが朝鮮民主主義人民共和国である。しかし、それが虚像であり、攻撃を仕掛けて来ることなど在り得ないことは、朝米交渉の歴史や合意文書を冷静かつ客観的に分析すれば明らかであり、それを社会に向けて発信―開示することも可能である〔注1〕。

◆この軍事の場合の例と違って、「コロナ」の場合は、たしかにいま、(事後的に)「コビッド19」と名付けられた症状―病気があり、それが重症化すれば死の危険性もあることは虚像や架空ではなく事実であるから、それへの抗し方は「軍事と安全」の問題と同様にはいかない。では、「コロナ」からの安全を名目とする政府の管理・統制に対しては、私たちはどのように抗っていく術があるだろうか。

まず欠かせないのが、誰でもが自由に検査を受けることができる体制の構築だろう。私たち市民相互の連帯を断ち切る「近づかない・集まらない」等の対策は、お互いが、あるいは市中にいる者みなが「感染している」ことを前提にして組み立てられているものだから、検査によって自分の体の状態が分かれば、互いに近づくことも集まることも、自身で決定することができる。PCR検査に精度の問題があっても、私たちが望めば容易にできる検査体制を政府・自治体に構築させることは、やはり、必須の課題である。

そして私たち市民・民衆が独自にすべきことは、「コロナ」(状況)に対する〈民衆知〉とでも呼ぶべきものの構築―それを成し得る自立・自律的市民組織やネットワークの構築ではないだろうか。

いま私たちは、「コロナ対策」において、「国家―専門家(専門知)」権力の指揮・統制下にあると言えるだろうが、緊急事態宣言に伴う諸措置や「接触8割減」はじめ、そこから発せられた分析・要請・指示の多くに根拠や効果・合理性がなかったことは、その後、諸データなどによって明らかにされ、一定の報道もなされている。このことは、合理的な根拠もないまま、私たち市民の自由・権利・生活に対する干渉・統制を「政府―専門家」権力が行ったことを意味する。したがって、私たち市民がその「知見・対策」を批判する力をつけなければ、私たちは、それに従順に従い続ける家畜と化さざるを得ない。

また、仮に、根拠や合理性のある「対策」だったとしても、それは国家全体から感染症状況を低減化させていくためのものであって、それに従う私たちひとり一人はその「対策」の対象・客体に過ぎない。そこに個としての自立・主体性・自己決定権―〈個人の尊厳〉は存在していない。

◆「軍事と安全」の問題に関しては、軍事力による国家安全保障に対し、それによらない〈民衆の安全保障〉という視座が提起され、沖縄で「先進国サミット」が開催された2000年、それに対抗して「〈民衆の安全保障〉沖縄国際フォーラム」が開かれ、次のように宣言した。

――・・・私たちはそれに対して「民衆の安全保障」の創造を追求します。それは、人びとが、自分たちの生活、仕事、環境、自由を守り、飢餓や差別に苦しまず、殺されたり傷つけられたりレイプされたりしない生身の平和と安全を、非軍事化をつうじて、自身の力で創りだしていくことを意味します。・・・――

本来、私たち市民にとっての市民自身の安全(―生存)は、その権利主体である私たちが近代人民主権国家に対して要求―保障させる性格のものである。しかし国家は、その「安全」を名目に、あなたたち国民の安全の保障のために必要と称して、私たちの自由・人権・生活を管理・統制してくる。そのとき私たちは、「市民の安全への権利」主体から、「国家全体の安全への義務」履行主体へと転倒させられるのである。〔注2〕

私たちは、政府のいう「安全」の意味と性格を、〈個人の尊厳〉を原理とする私たち市民・民衆の「安全・自由・権利」の立場からその都度、批判的腑分けをし、「国家安全」のための「コロナ対策」―管理・統制の「客体」にならないようにしなければならない。そして、この「コロナ状況下」で奪われ続ける私たちの自由・自立・自己決定権そして連帯を奪い返し、政府の「対策」を主権者たる私たち人民・市民の統制下に置かなければならない。

〔注1〕
一例だけ挙げておきたい。たとえば、1994年の『朝米基本合意書(枠組み合意)』も、2005年の『第四回六者協議共同声明』も、基本内容としては、「朝鮮の核関係開発の放棄」と「アメリカが朝鮮を(核)攻撃・侵略しない保障」とをセットの形とする「合意」である。互いに攻撃・侵略の可能性があるのではなく、アメリカの側のみにその可能性があり、朝鮮の側のみがその「脅し」を受けているからこそ、「アメリカが侵略しない保障」をすることによって、朝鮮がそこからの「防衛手段を放棄する」という構図の合意内容になるのである。

〔注2〕
たとえば、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」第四条には、「国民の責務」として、「国民は、感染症に関する正しい知識を持ち、その予防に必要な注意を払うよう努める」と記されている。現憲法上、国家への権利主体である私たち人民・国民に、その国家から「責務」―義務が課せられているのである。

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