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Channel: 詩人PIKKIのひとこと日記&詩
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或る通訳的な日常 米原 万里

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http://bungeikan.jp/domestic/detail/832/
 目次
 罵り言葉考
強みは弱みともなる
アゼルバイジャン・コニャックの味
 モテル作家は短い!
 ちゃんと洗濯しようよ!
 犬猫の仲

 罵り言葉考
 
 アンドレイ・サハロフ(砂糖)博士がゴリキー(苦い)市に流刑になったころ、市の名称をスラトキー(甘い)に改めるべきだ、などという小話が流行ったものだが、ご存知のとおり、最近現実の出来事として、長年公式筋に「ソビエト文学の父」視されてきたこの作家のペン・ネームは、「ソビエト水爆の父」の流刑先となったヴォルガ河畔の市の名称から外された。作家の生まれ故郷だった市は、作家の生まれた頃も、またその作品の中でもそう呼ばれているニジニイ・ノヴゴロドという昔の名前に戻った。

 スターリン時代の粛正への関与などの資料が白日のもとに晒されたこともあって、モスクワの目抜き通りの名称からも、「ロシア文学の父」プーシュキンの横顔と並んでワンセットになっていた、文学新聞のロゴからも姿を消してしまったゴリキーだが、その作品の全てが無価値になってしまうものでもあるまい。捨てがたい逸品がいくつもある。捨てがたい言葉もある。

 たとえば、ロシア語について、「世界に類を見ない罵り言葉の宝庫」と絶賛している。

 もっともロシア語しか知らなかったはずのゴリキーに、最低一千五百から最高六千ほどの言語があるといわれているこの世界に「類を見ない」などと言う資格があるのかと、至極当然な疑問がわいてくる。でありながら、一方で、妙な説得力を持っているから困る。

 たしかに言語によって、あるカテゴリーの語彙が極端に多かったり、少なかったりすることは度々ある。例えば、農耕菜食民族としての過去が長い私たち日本人のボキャブラリーには、肉体の各パーツを現す単語が狩猟民族だったアイヌの言葉などと較べてみても極めて貧弱で、内臓の各器官の呼称は、ことごとく中国語からの借用である、と金田一晴彦先生がどこかでおっしゃっていた。あるいは、遊牧肉食生活の伝統が長いモンゴル人の多くは、あらゆる種類の野菜をいとも簡単に無造作に「草」と呼んでしまう。そんな場面が、司馬遼太郎「街道を行く」シリーズの白眉「モンゴル紀行」に活写されている。

 今は主権独立宣言して「サハ共和国」と名乗るようになったかってのヤクート自治共和国を十年ほど前に訪れたとき、ヤクート語にはほとんど罵り、貶し、謗る言葉が欠如しているのでヤクート人は喧嘩をするときだけロシア語でやると伺った。これなど、ゴリキーの説を大いにバック・アップしているように思える。

 旧ソ連で日本向け書籍の出版社で長年編集者を勤めていらした関係で、多くの日本人翻訳者と交流し、奥様も日本人でいらっしゃるという、生きた日本語の格好の観察者の立場にあるP.トマルキン氏も、ご自身の体験から次のように述べておられる。

 

 日本人なら、単に首を傾げるか、せいぜい『そうかなあ』という言い方で相手に同意しかねる旨表現するところを、ロシア人なら十倍二十倍の罵り貶し言葉を口走る。水谷 修氏が『日本語の背景に腹芸と相手に対する思いやりがあるのに対して、英語はより相手に対して攻撃的であり過激である』(月刊「日本学」一九九一年十月号所収)と記されているが、英語に関する所見はそのままロシア語に当てはまる。

 (ロシア語通訳協会主催第四十一回学習会:一九九三年十二月十一日 於上智大学)

 

 また、ロシアの小説などに登場する数々の悪罵、愚弄の中でその80%は翻訳不能だと、著名なロシア文学者の先生方がボヤいらっしゃるのは事実だ。他の種類の単語なら、該当する日本語の単語が見あたらない場合、定語を付けたり、言い替えたりするのが常套だが、罵倒言葉を説明訳にしたのでは迫力が失われてしまうから悩みの種なのだという。さもありなんと同情しつつも、では、「このとんとんちき」とか「おたんこなす」とか「おまえなんか豆腐の角に頭ぶっつけて死んじまえ」なんていう言い回しを前にして、世界各国の日本文学翻訳者が途方にくれる姿をも同時に思い浮かべてしまうと、いやわが日本語も罵倒語の世界選手権では結構健闘しておるのではと、ついついひいき目にみてしまう私は、国粋主義の気があるのだろうか。

 ところで、書かれた言語よりも文章化されない言語の方にこの種の言葉の種類も豊富だし、使用頻度も高いのは、万国共通。といっても、私のような通訳者が、そういう場面に出喰わすのは、殆ど皆無に近いほど稀なことである。通訳者を介して意志疎通をはかる以上、決裂寸前の交渉であれ、非難と中傷合戦に終始する会談であれ、そこはお互い外国人相手であることを念頭に置くこともあって、最低の品位は保とうとする潜在意識が働くものらしい。

 実は通訳者にとってこの極めて貴重な、罵り言葉の通訳という体験をしたことがある。いや、正確には、通訳する羽目になって、できなかったことがある。日本のテレビ局が現在はサンクト・ペテルブルグと名を改めたレニングラードでのバレーボールの国際試合をソ連のテレビ局の協力を得て日本に生中継することになった。試合会場の八台のカメラから中継車に送られてくる映像に関する日本側ディレクターの様々な注文をソ連側ディレクターを通じて各カメラマンに伝え、また八つの映像の中からどの一つを選んで日本に送るかという指示を伝える。それを通訳するのが、私の仕事だった。初めのうちは、気取っていたソ連側ディレクターもカメラマンが指示通りの映像を送ってこないと言って苛立ち始めるや、たちまちよそゆきの仮面をかなぐり捨ててカメラマンたちとの激しいやり取りに没頭して行くのだった。それが、

 「ちゃんとボールを追って撮れ!」

 と言えば済むところを、その10倍の時間と語彙を駆使してこれでもか、これでもかという具合いに貶し、罵るのである。「糞」系と「ちんぽこ」系の単語を、まるで間投詞のようにふんだんに惜しみなく散りばめた罵り雑言もこれほど密集すると、憎悪よりも滑稽をもよおすというのが、この時の発見。完全に忘れ去られた格好になった日本側ディレクターが、

 「ネエネエ、なに言ってんのか教えてよおーっ」

 と私にせがむので、訳そうとしたものの絶句してしまった。対応する日本語が見当たらないのである。通訳不能にはなったものの、意味が分かったのは、ロシア人の悪友たちの薫陶のおかげと秘かに感謝した。

 しばらくして、このロシア人ディレクターとカメラマンたちとのやり取りにそっくりな会話が日本のテレビで流れた。しかも、NHK。大韓航空機を撃墜する前にソ連軍が放った偵察機のパイロット同士の会話を日本の自衛隊機が傍受し、それをそのまま日本語字幕を添えて放送したのである。覚えておいでの方も多いと思うが、もちろん、罵り言葉の部分は省略した翻訳ではあった。しかし、音で聞く限り、口汚くも限りなく豊かな罵詈雑言は、自衛隊が必要としている情報を担う言葉の量を圧倒的に凌駕しているのだった。それは、文字化するならば、おおよそ次のような様相をていしていたと思われる。

「xxxxxxxxxおいxxxxxおれだxxxxx○○○○○だ。xxxxxきこえるか。xxxxxxxxxx」

「xxxxxxxxxああxxxxxxきこえる。xxxxxxxxxxxx○○○○○だ。xxxxxxxxxxxx」

「xxxxxxxxxみえたか。xxxxxxありゃxxxxxxKだぜ。xxxxxxKだ。xxxxxxx」

 つまり、xxxxx部分が全てこれ罵り言葉だったのである。それはきっと暗号だったのではないか、と思われる方もいらっしゃるだろう。99・9%違う、と私は思っている。というのは、偵察機のパイロット同士のやり取りで想定され得る内容は、量的には少ないものの罵倒語に分類されない言葉で言い尽くされていたからである。傍受されているとはゆめゆめ思わないからこそ、当人達はあれほど濃密な罵倒言葉を交わし得たのであろう。

 それよりも、こうして貴重この上ないロシア語での罵りあいの場面に接して、この種類の言葉が、親密さの表現に大いに貢献しているという感を濃くした。他人の入り込む余地のない仲間内の雰囲気を創り出してくれるのだ。なかでも卑猥な罵り言葉、紳士淑女が間違っても口にすべきでない表現にその機能が強い。実は、バレー・ボールの生中継の際のディレクターとカメラマン達との掛け合いも、自衛隊が傍受したソ連軍偵察機のパイロット同士のやりとりも、まさにこの種のボキャブラリーにウンザリするほど満ち満ちていたのだった。

 このカテゴリーのなかで比較的、あくまでも比較的なのだが、品のいい罵倒語に「雌犬」あるいは「雌犬の息子」というのがある。ロシア語にも英語にもあるこの言い回しでは、言うまでもなく、女性に対して罵るときには前者を、男性に対しては後者を使う。「雌犬」というのは、相手構わず身を任せる、つまり身持ちの悪い、ふしだらな女を意味する。要するに「ズベ公」、「ズベ女」、「あばずれ」。「あばずれの息子」とは、父親が不明、つまり「父無し子」、「どこの馬の骨かも分からない奴」ということになる。

 イタリア語やスペイン語だと、「売女」とか「売女の息子」という言い方のほうが人口に膾炙しているらしいが、主旨は同じ。

 ところで、この「あばずれ」とか「ふしだら」、言い替えれば「男に対する門戸が広い」ことが女性のマイナス・イメージに、そして「処女」や「貞淑」、すなわち「男に対する門戸の狭い」ことがプラス・イメージになっていくプロセスは、おおらかな母権制社会が崩壊し、私有財産制を基盤とする父権制社会の確立と軌を一にしている、というようなことをエンゲルス先生が「家族・私有財産・国家の起源」の中で述べていたような気がする。母権制のもとでは、どの男の子どもであるかなど全く問題にもならなかったことが、財産権や相続の発生とともに血で血を洗うような重大事になってくる。男は財産を自分の血を分けた子にのみ継承させたいという排他的願望の虜になる。これを擁護し、正当化する制度が確立する中で、男の単なる独占欲は法や道徳律に「昇格」してしまい、「あばずれ」や「ふしだら」は、この排他的財産権を侵害する侮り難い脅威として罪悪視されるようになってしまった。

 先に紹介した「姦りたくてしかたない女」を意味するスペイン語の慣用句「走る女」も、このカテゴリーに分類される貶し言葉であろう。

 そういえば、私の幼年時代「おまえの母ちゃん出べそ」というのがなかなかポピュラーな罵り言葉として子どもたちの喧嘩の最中に愛用されていた。かく言う私も、随分お世話になった記憶がある。母親を貶すことによって、当の相手を罵るという点では、この「雌犬の息子」というのも、同じ手法である。これは相当頭にくるものらしい。スペイン語では、「お前の母親」と言っただけで、相手は青筋がぶっちぎれるほど怒り狂うものだと伺った。ロシア語には、この母親中傷路線上に「おまえの母親を姦った」というのがある。随分と物騒で過激で、わが日本語の「おまえの母ちゃん出べそ」なんて、これに較べると実に無邪気でたわいもない。

 さて、とある年輩の日本人が中国を訪問し、滞在中大変世話になり、親しみを感じるようになった中国人の青年に心からの感謝と親愛の気持ちを込めて、「君は、私の息子だ」と言ったところ、相手は喜ぶどころか、たちどころに怒りの余り顔面蒼白になり席を蹴って出て行ってしまった、という話を中国帰りの友人に伺ったことがある。「私の息子」とは、まさに「おまえの母親を姦った」という意味であって、最高のというか、最低の侮辱なのだそうだ。

 ああ、さすが中国四千年の歴史、「おまえの母親を姦った」といういかにも下品で直截的な物言いが、こんな迂遠な言い方に変わっていくのだなあ。これこそ文化というものではなかろうかと、それを知った瞬間、私は震えが止まらなくなるような感動の波に包まれたものである。

そして、少し落ちつきを取り戻したとき、今度は一種の閃きにも似た仮説が私の心を捉えて離さなくなってしまった。「おまえの母ちゃん」が「出べそ」であるのを知るには、やはりそのような状況にならねば果たせないのではないだろうか。ということは、これもまた「おまえの母親を姦った」の一変種で、余韻を尊び、語り尽くしてしまうことを無粋とする日本文化の特徴を見事に映し出しているのではないだろうか。 

 以上見てきたように、慣用句、成句、熟語に機械的対応は禁物。簡単に他の言語にコード転換できないものである。なぜか。それは、その慣用句や成句や熟語が成立した背景、すなわち過去の文脈を共有していない以上、通常の語彙と文法の知識だけでは理解不可能だからだ。普通文脈というと、単語や、ひとまとまりの表現の前後関係を意味するのだが、前後関係というときに、文章の中だけの前後関係だけではなく、この言葉が発せられた全体の状況、この言い方が誕生した遠い遠い過去の背景、これをも含むことがあったりするのだ。

 そんな事情から、次の機会には「文脈」に捧げることにする。

 ─「罵り言葉考」。1994年『不実な美女か貞淑な醜女か』(徳間書店)に初出。新潮文庫『不実な美女か貞淑な醜女か』所収─

 
 強みは弱みともなる
 *モスクワのインドネシア人

 最近、ドギツイものの何となく間の抜けた話を自動小銃から乱射するような友人を得た。仕事がら海外に行くことの多い人で、仮に須藤敏夫さんと名付けよう。この人は哲学徒にして神学徒で、しかも自称スパイでもあるからして、皮肉屋で偽悪的なところと、いやに説教くさく正義漢ぽいところとが奇妙なごった煮状態になっている。近頃この国ではなかなか見かけない青年で、話していて退屈しない。いつも少し気取って、普遍的抽象的命題を投げかける形で話を始める。たとえばある時、こんなことを言った。

 「人間にとって弱みとは、何だと思う?」
 いきなり、そんなこと問われて、
 「さあー」
 なんて、ちょっと困惑したふうに頭を傾げると、嬉しそうに鼻の穴を膨らませながら、物々しいテーゼを口にする。

「どの人間にも共通する弱みなんて存在しないのよ。弱みとは、その人間が弱みと思いこんだ時点から弱みとなるんだなあ」

 「アレッ、そうだろうか」
 などと、こちらが一瞬考え込んだりしようものなら、ギョロ眼を輝かせる。

 「インドネシアのスカルノ大統領がね」
 「ああ、あのデビさんを第3夫人にした、インドネシア建国の父ね」
 「そうそう。その故スカルノ大統領がモスクワを訪問したとき...」

 須藤さんは言いたくて言いたくて仕方ないのに、こちらをじらそうと勿体つけている。でも結局自分の方がじれったくなったらしく、一気に話を吐き出した。あまりに急ぐものだから、息継ぎもできない様子である。

 「ソ連のKGBが近づけた美女に引っかかって、その美女と過ごしたベットでの一部始終をバチバチ写真に撮られちゃってね。もう、ありとあらゆる狂態、尻の穴までしっかりカメラにおさめられちまった。この写真を見せてスカルノを脅し、ソ連の思い通りに動く傀儡に仕立て上げようと、KGBは考えたわけね。

 写真を見せつけられたスカルノは、震えが止まらなくなったんだけど、それは怖かったせいじゃなくて、喜びのあまりだったの。キャーキャーはしゃいじゃって、写真持ってきた男抱きしめんばかりにして言ったそうだよ。

 『いやあ、素晴らしい写真をありがとう。ほんとにありがとう。おかげで明日から今までの十倍楽しめるよ』

 これ以後KGBは、相手を脅そうとするとき、女だけでは、相手を落とせないこともある、と学んだみたいなんだ。酒に睡眠薬入れて酔い潰して、眠っているところを裸にして男と絡み合ってる写真もバチバチ撮るようになったらしい。こんな写真、本国の本社に送りつけると脅されたらビビるでしょう、普通?」

 それにしても、したたかな政治家とは、一流の脚本家兼演出家兼俳優である。たしかに、一夫多妻を公認されているイスラム教徒であり、その艶福家ぶりを自他ともに認めるスカルノではある。しかし、いやしくも一国の元首である彼が、国賓として迎えられているはずの国の政府機関に女との濡れ場の写真を撮りまくられて、内心ムッとしなかったはずはない。それでも米中ソという各大国との距離を巧みにとりながら、建国途上の自国の独立を維持していかなければならない彼は、激して我を忘れることなく、とっさの判断で巧みにKGBの矛先をかわしてしまった。さすが数えきれないほど多くの修羅場をくぐり抜けてきたスカルノは、KGBより何枚も上手だ。彼なら、男との濡れ場写真を突きつけられても、屁とも思わないんではなかろうか。

 というわけで、わが友須藤さんの導き出した、

「弱みとは、その人間が弱みと思いこんだ時点から弱みとなる」

なる戒めは、脅迫された場合の心構えとしては、実に有効と思われる。

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