http://www.labornetjp.org/news/2020/1586831854104staff01
・「都教委包囲首都圏ネットワーク」、・「新芽ML」、
・「ひのきみ全国ネット」、・「戦争をさせない杉並1000人委員会」
の渡部です。
==============================
「緊急事態宣言」発令により、経済活動が大きく止まり、
人々の仕事と生活が一気に悪化しつつある中、
4月12日には若者が渋谷で「要請するなら補償しろ!」
というデモを行い、安倍ヤメロ!、麻生ヤメロ!の声を上げました。
また、反貧困ネットワークなども、4月16日には議員会館で、
「国会議員への要請行動・官庁交渉」をやるようです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『新装増補版・慈愛による差別』紹介の続きです。
<序章 軍国少女はつくられた>では、
北村さんの幼少期にどのようにして
「軍国少女」がつくられたか(以下の①~⑦)、
また戦後の彼女の足跡(⑧~⑪)が述べられています。
そこでは、以下のような項目について語られています。
①遠足―聖域拡散をありがたくうけて
②爆弾三勇士
③のらくろ
④明仁誕生
⑤父
⑥慰問文
⑦日本赤十字社
⑧教師(これは戦後彼女が教師になってからのこと)
⓽日常のなかの差別―”障害者は価値を下げる”
⑩教育塔―身を立てて名を挙げる
⑪教育における靖国神社
⑫1988年10月30日、教育祭をみる
⑬与えられた分際
いずれも興味深いものだが、その中からいくつかの記述を紹介します。
(④明仁誕生)
ともかく男が待たれていた。裕仁にはすでに五人の
子どもがいたがすべて女であった。
男すなわち皇太子誕生が待たれていた。
何れにしろ誕生の時には一分間のサイレンが鳴ることになっていた。
それがもし男だったら十秒おいてもう一度鳴ることになっていた。
それが1933年12月23日市役所のサイレンが鳴った。
人々が息を飲む中二度目も鳴ったのである。
興奮するおとなの中で私もバンザイを叫んでいた。
間もなく「皇太子さまお生まれになった」(作詞 北原白秋)と
「昭和の子ども」が表裏になったレコードが売り出された。
あちこちで奉祝行事がおこなわれた。
私たちは、爆弾三勇士の銅像のある公会堂で、
日の丸の小旗をもって、このレコードにあわせて踊りを踊った。
(⑦日本赤十字社)
卒業を控えて友人達の針路がきまっていく中、
なかなかきまらない私はあまりかっこの悪いこともできず、
焦り迷っていた。そんなある日、新聞で日本赤十字社救護看護婦募集の
広告を見た。そのとたん”これだ”と思った。すでに本社をはじめ
「内地」の養成所は終わり最後の京城養成所の募集であった。
受験して合格してからも家族は反対したが、
反対されればされる程、自分のしようとしていることに
値打ちがあるように思えて、私の決意は固まっていった。
学校が盛大に送ってくれた。
(この後に、日本赤十字社の設立と皇室の関係が詳しく説明され、
敗戦後の彼女の行動が述べられている。)
(⑩教育塔―身を立てて名を挙げる)
・・・しかし、私の重ねて騙された愚かさをわらう人々が、
はたして今自分が騙されていることを、或いは自分で自分を
騙していることに気がついているであろうか。
それにしても、私はなぜそのような機会
(国のためにヒロインになること:渡部注)を待ったのであろうか。
恐らく私だけではあるまい。戦争という非常事態が、
身を立て名を上げる絶好のチャンスだと宣伝された。
そんな宣伝に抑圧されたもの、うだつのあがらない者程
のりやすかったということであろうか。
私について強いて言いわけをすれば、
父親のない家族で育ったものが男社会にとまどい、
男並みをめざしたところでのってしまったとでも言えようか。
(⑫1988年10月30日、教育祭をみる)
(ここでは、1936年に「帝国教育会」によって「教育塔」が
大阪城公園内に建設され、戦後その維持・管理を日教組が引き継いだが、
そこで戦後も行われている「教育祭」を見に行ったことが述べられている)
国の為、天皇の為に命を捧げる国民を育成する教師の理想像が、
いまでもこうしてあり続ける。私は祭が終わり、後たたづけが進むなか、
近よって二つのレリーフがさらにはっきり理想の女教師像を
示していることを見た。
すなわち平時には男より一歩さがって控えているが。
非常時には男に伍して勇敢に活動する姿である。
この像こそが私の受けた教育の結論なのである。
その像がこうして現在もあり続け讃えられているということは、
戦争によって内外に多くの人々の血を流したにもかかわらず、
日本が何等の変革も遂げなかった一つの証拠であろう。
(⑬与えられた分際)
天皇制との闘いとは制度そのものへの挑戦とともに、
それそれが与えられた分際(理想像)から
どう解放されるかという己自身の闘いでもある。
さらには解放された面々からつきつけられるものに
応え得るかという闘いであろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
次回に続く。
・「都教委包囲首都圏ネットワーク」、・「新芽ML」、
・「ひのきみ全国ネット」、・「戦争をさせない杉並1000人委員会」
の渡部です。
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「緊急事態宣言」発令により、経済活動が大きく止まり、
人々の仕事と生活が一気に悪化しつつある中、
4月12日には若者が渋谷で「要請するなら補償しろ!」
というデモを行い、安倍ヤメロ!、麻生ヤメロ!の声を上げました。
また、反貧困ネットワークなども、4月16日には議員会館で、
「国会議員への要請行動・官庁交渉」をやるようです。
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『新装増補版・慈愛による差別』紹介の続きです。
<序章 軍国少女はつくられた>では、
北村さんの幼少期にどのようにして
「軍国少女」がつくられたか(以下の①~⑦)、
また戦後の彼女の足跡(⑧~⑪)が述べられています。
そこでは、以下のような項目について語られています。
①遠足―聖域拡散をありがたくうけて
②爆弾三勇士
③のらくろ
④明仁誕生
⑤父
⑥慰問文
⑦日本赤十字社
⑧教師(これは戦後彼女が教師になってからのこと)
⓽日常のなかの差別―”障害者は価値を下げる”
⑩教育塔―身を立てて名を挙げる
⑪教育における靖国神社
⑫1988年10月30日、教育祭をみる
⑬与えられた分際
いずれも興味深いものだが、その中からいくつかの記述を紹介します。
(④明仁誕生)
ともかく男が待たれていた。裕仁にはすでに五人の
子どもがいたがすべて女であった。
男すなわち皇太子誕生が待たれていた。
何れにしろ誕生の時には一分間のサイレンが鳴ることになっていた。
それがもし男だったら十秒おいてもう一度鳴ることになっていた。
それが1933年12月23日市役所のサイレンが鳴った。
人々が息を飲む中二度目も鳴ったのである。
興奮するおとなの中で私もバンザイを叫んでいた。
間もなく「皇太子さまお生まれになった」(作詞 北原白秋)と
「昭和の子ども」が表裏になったレコードが売り出された。
あちこちで奉祝行事がおこなわれた。
私たちは、爆弾三勇士の銅像のある公会堂で、
日の丸の小旗をもって、このレコードにあわせて踊りを踊った。
(⑦日本赤十字社)
卒業を控えて友人達の針路がきまっていく中、
なかなかきまらない私はあまりかっこの悪いこともできず、
焦り迷っていた。そんなある日、新聞で日本赤十字社救護看護婦募集の
広告を見た。そのとたん”これだ”と思った。すでに本社をはじめ
「内地」の養成所は終わり最後の京城養成所の募集であった。
受験して合格してからも家族は反対したが、
反対されればされる程、自分のしようとしていることに
値打ちがあるように思えて、私の決意は固まっていった。
学校が盛大に送ってくれた。
(この後に、日本赤十字社の設立と皇室の関係が詳しく説明され、
敗戦後の彼女の行動が述べられている。)
(⑩教育塔―身を立てて名を挙げる)
・・・しかし、私の重ねて騙された愚かさをわらう人々が、
はたして今自分が騙されていることを、或いは自分で自分を
騙していることに気がついているであろうか。
それにしても、私はなぜそのような機会
(国のためにヒロインになること:渡部注)を待ったのであろうか。
恐らく私だけではあるまい。戦争という非常事態が、
身を立て名を上げる絶好のチャンスだと宣伝された。
そんな宣伝に抑圧されたもの、うだつのあがらない者程
のりやすかったということであろうか。
私について強いて言いわけをすれば、
父親のない家族で育ったものが男社会にとまどい、
男並みをめざしたところでのってしまったとでも言えようか。
(⑫1988年10月30日、教育祭をみる)
(ここでは、1936年に「帝国教育会」によって「教育塔」が
大阪城公園内に建設され、戦後その維持・管理を日教組が引き継いだが、
そこで戦後も行われている「教育祭」を見に行ったことが述べられている)
国の為、天皇の為に命を捧げる国民を育成する教師の理想像が、
いまでもこうしてあり続ける。私は祭が終わり、後たたづけが進むなか、
近よって二つのレリーフがさらにはっきり理想の女教師像を
示していることを見た。
すなわち平時には男より一歩さがって控えているが。
非常時には男に伍して勇敢に活動する姿である。
この像こそが私の受けた教育の結論なのである。
その像がこうして現在もあり続け讃えられているということは、
戦争によって内外に多くの人々の血を流したにもかかわらず、
日本が何等の変革も遂げなかった一つの証拠であろう。
(⑬与えられた分際)
天皇制との闘いとは制度そのものへの挑戦とともに、
それそれが与えられた分際(理想像)から
どう解放されるかという己自身の闘いでもある。
さらには解放された面々からつきつけられるものに
応え得るかという闘いであろう。
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次回に続く。