リンク集にあるサイトを覗いてみたら、オーストラリアと北米の先住民についての記事が二つ興味深かったのでコピーしておくことに。
《日本はアイヌに謝罪しないのか(「オーマイニュース」より)ー数百年にわたり虐げられてきた北方先住民族(岡井 健2008-02-16)ー
07年に選出されたオーストラリアの若き指導者、ケビン・ラッド首相が、アボリジニに謝罪した。白人たちは、オーストラリアの先住民のアボリジニから多くのものを奪い、白人国家を建設した。
白人は土地だけでなく、姓名や文化や自由などを奪い、強制収容所に送り込み白人の教育を行ってきた。こうした行為を行きすぎたものだと反省し「失われた世代」に対する、初めての公式謝罪であった。傍聴した多くのアボリジニは涙を流し、首相の謝罪を聞き入っていた。
「深い苦しみ、深い悲しみと多大な損失」を与えたと述べ、何度も謝罪の言葉を連ねた、ラッド首相の言葉は重かった。一方の日本はアイヌ民族に対してどうなのだろう。
アイヌ民族を日本は「先住民族」と認めていない。東北地方に住んでいたアイヌ民族を追い詰めるための「征夷大将軍」は、侍の最高地位として位置づけられていた。征夷とはアイヌを征伐する仕事である。この称号は、その後の日本の為政者の最高位の称号ともなった。そして、今でも日暮里(にっぽり)などのアイヌの地名が、関東以北に多く残っている。
1997年に廃止されるまで、「旧土人保護法」で縛られていたアイヌは、シャモ(日本人・倭人)からどんな仕打ちを受けてきただろうか。交易では一方的な搾取を行い、文字を奪い文化を否定し、土地を奪って追い出したのである。
アイヌ最大の反乱「シャクシャインの戦い」を知ったのは、成人になってからである。高校までの歴史ではまったく教えてもらえなかった(最近は小さく載っているようである)。ほぼ同時期に発生した、島原の乱は教科書にあった。松前藩は戦いには大きく敗北したが、和睦(わぼく)の席でシャクシャインを惨殺したのである。
わずか3カ月程で1万人程度だった島原の乱に比べて、シャクシャインはほぼ30年、北海道全域の部族を集め戦ったのである。乱の大きさは比較にならないものがある。また、歴史的にみても大きな意味を持つ戦であった。
友人のアイヌの人たちは、幼いころから差別を受け生きてきた。今では日本語しか話せないし、日本名しか持たない人たちばかりである。資産もほとんどない人たちが多い。彼らは、北方領土返還運動でとなえられる「固有の領土」という言葉に、冷ややかである。
アイヌは数百年におよび、アボリジニに比較するのもおこがましいほどの、多大な略奪と苦悩と悲しみを受けてきた。日本人は、もう悲しみさえ時間の中に消え去り、記憶さえ失い怒りを失ったことを良いことに、アイヌに謝罪すらしようとしない。
日本は、ラッド首相を見習うべきでないのか。》
《「ー原住民の悲しい歴史(2008/02/15)より」
19世紀初頭、オーストラリア南部のタスマニア島で原住民狩りが行われた。白人が飼う羊を保護するためだった。動員されたのは刑務所に収監されていた犯罪人や一般人で、一列に並んで島を探索し、原住民を見つけるとその場で射殺した。こうして1835年までに3000人から4000人が虐殺され、生き残った135人は小さな島へと送られた。しかし彼らも新しい環境に適応できず、1876年までに全員が死亡した。
原住民抹殺政策が最も大規模に行われたのが北米大陸だった。英国の植民地時代には頭の皮1枚に40ポンド(現在のレートで8500円)の賞金が懸けられ、「最良のインディアンは死んだインディアン」とも言われた。1500年に200万人いたといわれるアメリカインディアンは、1910年には22万人にまで激減した。(pikki註:強制収容所的リザベーションに隔離)
現在は直接の弾圧や虐待はほぼ姿を消したが、原住民社会の危機は相変わらず続いている。地位や権益で差別され、土地開発などで生活の基盤が破壊されている。ボツワナ政府は2002年、カラハリ砂漠の野生動物を保護するという名目で、2万年以上もこの地で生活してきたブッシュマンを追い出した。南米アマゾン流域でも、ガス田開発のために原住民が生存の危機に直面している。
原住民社会のアイデンティティーと固有の文化を巧妙に抹殺した事例もある。日本は1871年に戸籍法を制定し、北海道の原住民だったアイヌ族を平民とした。アイヌ語の使用や狩猟、伐採などを制限あるいは禁止し、彼らを日本人として同化させた(pikki註:「十勝平野」に詳しい)。
オーストラリアも1970年まで、原住民アボリジニの子ども5万人を強制的に両親から引き離し、白人家庭で養育させた。文明化政策という名の下、野蛮な原住民に西欧文明を教え込むという恵沢を与えるというものだった。
オーストラリアのケビン・ラッド首相は、「同じオーストラリア人であるアボリジニに大きな苦痛と悲しみを抱かせた歴代政府の法と政策に対し謝罪する」と述べ、文明化政策の過ちを初めて公式に認めた。白人家庭に育てられた子どもたちは、そのほとんどが適応できないまま薬物やアルコール中毒になったり、身体的・性的虐待を受けたりした。オーストラリアの文明化政策の結果は、野蛮と文明の二分法を再び思い出させた。ラッド首相の謝罪は、文化の多様性の価値を認めなかった西欧文明の傲慢と独善に対する反省だ。 (キム・ギチョン論説委員、朝鮮日報/朝鮮日報JNS)》
《日本はアイヌに謝罪しないのか(「オーマイニュース」より)ー数百年にわたり虐げられてきた北方先住民族(岡井 健2008-02-16)ー
07年に選出されたオーストラリアの若き指導者、ケビン・ラッド首相が、アボリジニに謝罪した。白人たちは、オーストラリアの先住民のアボリジニから多くのものを奪い、白人国家を建設した。
白人は土地だけでなく、姓名や文化や自由などを奪い、強制収容所に送り込み白人の教育を行ってきた。こうした行為を行きすぎたものだと反省し「失われた世代」に対する、初めての公式謝罪であった。傍聴した多くのアボリジニは涙を流し、首相の謝罪を聞き入っていた。
「深い苦しみ、深い悲しみと多大な損失」を与えたと述べ、何度も謝罪の言葉を連ねた、ラッド首相の言葉は重かった。一方の日本はアイヌ民族に対してどうなのだろう。
アイヌ民族を日本は「先住民族」と認めていない。東北地方に住んでいたアイヌ民族を追い詰めるための「征夷大将軍」は、侍の最高地位として位置づけられていた。征夷とはアイヌを征伐する仕事である。この称号は、その後の日本の為政者の最高位の称号ともなった。そして、今でも日暮里(にっぽり)などのアイヌの地名が、関東以北に多く残っている。
1997年に廃止されるまで、「旧土人保護法」で縛られていたアイヌは、シャモ(日本人・倭人)からどんな仕打ちを受けてきただろうか。交易では一方的な搾取を行い、文字を奪い文化を否定し、土地を奪って追い出したのである。
アイヌ最大の反乱「シャクシャインの戦い」を知ったのは、成人になってからである。高校までの歴史ではまったく教えてもらえなかった(最近は小さく載っているようである)。ほぼ同時期に発生した、島原の乱は教科書にあった。松前藩は戦いには大きく敗北したが、和睦(わぼく)の席でシャクシャインを惨殺したのである。
わずか3カ月程で1万人程度だった島原の乱に比べて、シャクシャインはほぼ30年、北海道全域の部族を集め戦ったのである。乱の大きさは比較にならないものがある。また、歴史的にみても大きな意味を持つ戦であった。
友人のアイヌの人たちは、幼いころから差別を受け生きてきた。今では日本語しか話せないし、日本名しか持たない人たちばかりである。資産もほとんどない人たちが多い。彼らは、北方領土返還運動でとなえられる「固有の領土」という言葉に、冷ややかである。
アイヌは数百年におよび、アボリジニに比較するのもおこがましいほどの、多大な略奪と苦悩と悲しみを受けてきた。日本人は、もう悲しみさえ時間の中に消え去り、記憶さえ失い怒りを失ったことを良いことに、アイヌに謝罪すらしようとしない。
日本は、ラッド首相を見習うべきでないのか。》
《「ー原住民の悲しい歴史(2008/02/15)より」
19世紀初頭、オーストラリア南部のタスマニア島で原住民狩りが行われた。白人が飼う羊を保護するためだった。動員されたのは刑務所に収監されていた犯罪人や一般人で、一列に並んで島を探索し、原住民を見つけるとその場で射殺した。こうして1835年までに3000人から4000人が虐殺され、生き残った135人は小さな島へと送られた。しかし彼らも新しい環境に適応できず、1876年までに全員が死亡した。
原住民抹殺政策が最も大規模に行われたのが北米大陸だった。英国の植民地時代には頭の皮1枚に40ポンド(現在のレートで8500円)の賞金が懸けられ、「最良のインディアンは死んだインディアン」とも言われた。1500年に200万人いたといわれるアメリカインディアンは、1910年には22万人にまで激減した。(pikki註:強制収容所的リザベーションに隔離)
現在は直接の弾圧や虐待はほぼ姿を消したが、原住民社会の危機は相変わらず続いている。地位や権益で差別され、土地開発などで生活の基盤が破壊されている。ボツワナ政府は2002年、カラハリ砂漠の野生動物を保護するという名目で、2万年以上もこの地で生活してきたブッシュマンを追い出した。南米アマゾン流域でも、ガス田開発のために原住民が生存の危機に直面している。
原住民社会のアイデンティティーと固有の文化を巧妙に抹殺した事例もある。日本は1871年に戸籍法を制定し、北海道の原住民だったアイヌ族を平民とした。アイヌ語の使用や狩猟、伐採などを制限あるいは禁止し、彼らを日本人として同化させた(pikki註:「十勝平野」に詳しい)。
オーストラリアも1970年まで、原住民アボリジニの子ども5万人を強制的に両親から引き離し、白人家庭で養育させた。文明化政策という名の下、野蛮な原住民に西欧文明を教え込むという恵沢を与えるというものだった。
オーストラリアのケビン・ラッド首相は、「同じオーストラリア人であるアボリジニに大きな苦痛と悲しみを抱かせた歴代政府の法と政策に対し謝罪する」と述べ、文明化政策の過ちを初めて公式に認めた。白人家庭に育てられた子どもたちは、そのほとんどが適応できないまま薬物やアルコール中毒になったり、身体的・性的虐待を受けたりした。オーストラリアの文明化政策の結果は、野蛮と文明の二分法を再び思い出させた。ラッド首相の謝罪は、文化の多様性の価値を認めなかった西欧文明の傲慢と独善に対する反省だ。 (キム・ギチョン論説委員、朝鮮日報/朝鮮日報JNS)》