第10回 2016年7月1日 松本昌次(編集者)
目取真俊「希望」
元米海兵隊員で軍属の男による、沖縄県うるま市の女性殺害事件に抗議する県民大会が、先月の6月19日、那覇市奥武山(おうのやま)陸上競技場で開かれました。参加者約6万5千人。1995年、米兵3人による、12歳の少女に対する強姦暴行事件に対する抗議の県民総決起大会(約8万5千人参加)以来の大規模な抗議集会です。主催は、翁長雄志知事を支持する社民・共産などの政党や企業でつくる「オール沖縄会議」。自民・公明・おおさか維新は不参加。人間の生命より政治的立場を優先する不思議な集団です。
新聞(朝日・6月20日付)によれば、1972年の本土復帰から昨年までに、米軍の犯罪事件は5896件、うち殺人・強盗・強姦などの凶悪事件は574件(県警調べ)に及ぶといいます。いうまでもなくこれらは表沙汰になったものだけで、ウヤムヤになったものがどれだけあるかは解りません。このように数字でしか言い現わせない一件一件が、どのような事実を背負っているか。それらは、政府・米軍一体となった「遺憾」「綱紀粛清」「再発防止」という常套句によって消去されてきたのです。と同時に、本土に住む人間たちの無関心によって。
県民大会で壇上に立ち、涙をぬぐいながら8分間のスピーチをした、名護市の大学生・玉城愛さん(21)が、静まり返った会場で、ぎりぎりまで悩み、しかしどうしても伝えたかったことは何んでしょうか。それは、沖縄を軽視しているように見える本土への怒りでした。彼女は訴えました。――「安倍晋三さん、日本本土にお住まいの皆さん、今回の事件の第二の加害者は誰ですか? あなたたちです。しっかり沖縄に向き合っていただけませんか」。(記事=奥村智司・吉田拓史)
それでは、安倍晋三さんは別にして、日本本土に住んでいるわたしたち日本人は、「第二の加害者」として沖縄にしっかり向き合うことができるでしょうか。否です。たまたま「AERA」6月27日号が、〔大特集〕「沖縄を他人事だと思っていませんか」を組んでおり、そのなかの目取真俊さんと高橋哲哉さんの対談を読むと、その感を深くします。高橋さんといえば、東大教授の職にありながら、最も真摯に沖縄を犠牲にしてきた日本国家の戦前・戦後の責任を告発してきた哲学者です。その高橋さんの基地「県外移設論」に対し、目取真さんは、終始、それは「ただの観念的な言葉の応酬にしか見えません」、「運動につながらない『基地移設』の言論活動に何の意味があるのでしょう」、「ヤマトゥンチュー(日本人)は71年間沖縄の痛みに関心を持たなかったのに、今さら『県外移設』を訴えれば関心を持つようになるんですか」と問い、辺野古の新基地建設の工事現場でのゲート封鎖、普天間・嘉手納のゲート封鎖への500人、千人の沖縄県民の行動こそが、日米安保体制を揺るがせると語ります。高橋さんは、ただ、現場での非暴力の阻止行動には簡単には参加できないけれども、その状況はよくわかりましたと、答えるしかないのです。
いまから17年も前の1999年6月26日、「朝日」夕刊に、短篇というより掌篇といっていい400字詰原稿用紙にして5、6枚の目取真俊さんの小説が発表されました。要約の不備を恐れずに書けば、「今オキナワに必要なのは、数千人のデモでもなければ、数万人の集会でもなく、一人のアメリカ人の幼児の死なのだ」という声明文を残し、スーパーの駐車場にとまっていた白人の女の車のなかに残されていた三歳くらいの男の子の首を絞めて殺し、焼身自殺する男の物語です。題して「希望」。ヤマトゥンチューとして、この作品をどう胸に叩きこんで沖縄と向き合えるでしょうか。
*「希望」 『沖縄/草の声・根の意志』世織書房・2001年9月刊/目取真俊短篇小説選集3『面影を連れて(うむかじとぅちりてぃ)』影書房・2013年11月刊に収録。