日本はこれからどうなるのか。精密な論証や説得材料の構成は抜きにして、ざっくり比喩の方法で三つのパターンを提示したい。一つ目は、平安時代の日本である。このアナロジーは、実は15年前のブログで試みたことがある。15年前だから大昔だ。したがって、これからどうなるかという将来予想の議論ではなく、日本はこうなりつつあるという現在進行の事態への憂慮と警世の問題提起だった。新自由主義の社会原理を根底から批判する意味で、戦後日本が作ってきた近代市民社会が掘り崩され、古代奴隷制社会の内実へ逆転しつつあるという認識を述べた。今から振り返って、当を得た指摘と考察だと思う。無論、このときは、新自由主義が体制化されてゆく眼前の政治と経済を批判し、そうした悪魔的な不幸の方向に押し流されてはならじと焦燥し、流れを阻止する対抗言論を立ち起こすべく、平安日本のアナロジーを着想して意味を問うたのである。そこから15年経って、今の現実は、当時思っていたよりももっと生々しく、徹底的に妥協なく、非の打ちどころもない平安時代に戻っている。平安期日本がどんな社会だったかの想像に、全く努力や苦労を要さない。
一昨年、池袋での飯塚幸三による卑劣な轢き逃げ事件があり、「上級国民」という新語が立ち上がって人口に膾炙され、キーワードとして確立されるところとなった。今、石原伸晃の特権入院がネットで物議を醸している。会社に長く勤めて社会保険料を払い、年金から健康保険税を収め、保険証を持っているコロナの患者が、医療機関から拒否され、自宅待機を強制されて苦しみ抜き、高熱を伴う重症肺炎で絶命している。石原伸晃は何の症状もないのに入院して治療してもらえる。そのことについて、マスコミは全く問題視せず、テレビは報道せず、批判しているのはネットの匿名者だけという有様だ。15年前は、これほどの極端な身分制社会ではなかっただろう。今の日本は、ただの格差社会ではない。厳然たる階級社会であり、非正規労働者の子どもは非正規労働者の人生を繋ぐ。それが当たり前になって固定化し、動かしがたい、改善できない構造になっている。小選挙区制の下、共産党以外はすべて新自由主義政党だ。その階級社会の中身は、世襲の貴族社会として確立していて、議員は議員の子であり、大学教授は大学教授の子である。マスコミ幹部の子はマスコミに入る。どれほど無能でも。
今の日本には憲法がない。憲法の契機と実体がない。近代国家に欠くべからざる主柱である憲法が、紙の上だけの存在でしかなく、何から何までスポイルされて空文になっている。ちょうど15年くらい前から、やたら「立憲主義」が言われるようになったのは、まさに象徴的であり本質的な思想現象で、この国に憲法がなくなったからである。国民は国家の主権者ではなくなり、基本的人権は平等に保障されなくなった。人としての自由と権利が十二分に保障され、それを享受できるのは、石原伸晃のような、白井聡のような世襲二世の貴族であり、株転がししてマネーを増殖できる有産の富裕層である。自衛隊の軍備増強を問題視するとき、誰も「憲法9条」の存在を言わなくなった。その代わり「専守防衛」の言葉を置いている。日本国憲法には「専守防衛」など一言も書いてないのに。嘗ての日本(戦後日本)は、憲法にとても煩い国だった。10代の頃、70年代だが、皆よく憲法の話を侃々諤々していた。そこに近代国家と市民社会があった。今はそれがなく、すなわち前近代社会であり、江戸時代よりも質の悪い、人民が無権利な奴隷社会になっている。人民に全く主体性がない、知性がない、「枕草子」で侮辱的に出てくる蒙昧な民衆になっている。
先があるので話を端折って次に行こう。アナロジーの二つ目の国家社会像は、1960年代の東ヨーロッパ諸国である。ハンガリーとかチェコスロバキアとか。この比喩の試論についても、以前に書いたことがあり、我ながら正鵠を射た認識と批判だと思う。われわれの身の回りはCIAだらけだ。嘗ての東欧諸国がKGBだらけであったように、テレビの報道番組に登場するのはCIAの息のかかった人物ばかりであり、テレビに出て出世するのはCIAに重用されている者ばかりである。CIAと日本会議が共同でテレビ番組を制作している。人事を決め、流す報道内容を決めている。今の日本政府のエンジン(機動部)となり、法律と予算を差配している経産省は、いったいどういう論理と目的と動機と自覚で動いているのか。官僚が国を棄てて壊している。「第四次産業革命日本センター」だの「アジア・パシフィック・イニシアティブ」財団のメンバーリストを見ていると、目眩と頭痛がして脳が硬直してしまう。これが今の日本を動かしているアドミニストレーターであり、「使命感」を持って毎日生き生き楽しく仕事をしている。株も転がしているだろう。その目的は、中国の台頭からアメリカを守り、アメリカの世界覇権を維持発展することであり、そのための日本にすることである。
東証はNYSEのサブセットになった。円は諭吉の顔を刷ったドルになった。自衛隊が米軍の一部であり、米軍と米国を守る支隊として再編されている事実は言うまでもない。米中戦争が始まるときは、真っ先に突撃して中国軍と交戦する主力部隊となり、米国のために血を流す前線正面の軍隊となるだろう。「日米年次改革要望書」は、2009年に廃止されたことになっているが、裏で続いていることは間違いない。「アーミテージ・レポート」は続いており、2012年の第三次レポートに従って、2013年の秘密保護法と2015年の安保法制が強引に成立させられた。原発再稼働も果たされた。2018年の第四次レポートは、中国封じ・中国叩きの方針を前面に押し出したものだが、これが出て以降、特に日本のマスコミの言論が変わり、毎日毎晩のようにテレビが中国へイトを執拗に繰り返し、左翼リベラルまでが整列して呼応し、「暴支膺懲」と「尊米攘中」をヒステリックに連呼する景観となった。浜田敬子や元村由希子まで。本当に蟻が這い出る隙間もないほど、日本の空間は中国憎悪の毒気に染まり、日本国民と日本社会の第一義の命題になっている。誰も異論を挟めず、抗いの弁を言い立てることができない。戦前以上のファシズム体制の漆喰が固まっている。この先、中国と戦争をする以外の進路と方向があるだろうか。
憲法のない前近代の、階級社会で身分制の、貴族と荘園奴隷の日本社会といっても、そこが今と違うのは、外国に支配されてないことである。日本人が日本人を支配している。京(朝廷権力)の門閥貴族が支配者として君臨し、無力で無口な荘園奴隷の民を収奪している。外国すなわち異民族権力の介在や統治はない。今回、初めてその二重支配システムの下に入り、本朝の民が異国に収奪支配される体制になった。植民地日本となった。1960年代のハンガリーやチェコスロバキアの政治体制と言論状況となった。アメリカを批判する発言はない。言論の自由はあるが、自由を行使するとマスコミでは仕事を失う。大学でも職にありつけないだろう。マスコミでも、アカデミーでも、左翼世界まで、アメリカ礼賛・アメリカ崇拝・アメリカ依存の言説と信仰だけが溢れている。歴史的に一度も経験のない従属体制が固まった日本。ドラマ『坂の上の雲』に登場する、20世紀初頭のイロクォイ族の地位になった日本。ひたすら搾取され、人生の基盤と活力を失い、尊米攘中の宗教を刷り込まれて狂信し、人口の再生産能力を失い、国民経済と国民国家の展望を失った日本。それを危機とも思わず、抗おうともせず、成り行きに任せておとなしくしている民衆。多様性主義一直線で脱民族・脱国民の路線を疾駆している日本。民族の末路としか言いようがなく、滅亡以外の先がないのは歴然だ。
三つ目に紹介する比喩は、西アフリカのマリとかニジェールといった国の類型である。このイメージはこれまで発想したことはなかった。初めての直観と想起である。アメリカと中国が緊張して対峙しつつも、戦争とならず、そのため平和裡の過程で中国の経済と勢力が漸次的に拡大伸張し、アメリカが唯一の超大国としての実力と条件を失い、覇権の縮小と後退を余儀なくされたとき、急速に衰退する日本はどんな国に落ちぶれているか。マリとかニジェールの国柄と属性は、あまり馴染みがなくイメージを描きにくい。が、どうやら未だに国内にフランス軍基地があり、反政府勢力をフランス軍が掃討するなどというアナクロが行われている段階と事情らしい。40年前と同様。政府の閣僚や政権の要人もフランスに留学した権勢門閥で、経済もフランス資本が牛耳っているのだろう。フランスが甘い汁を吸っている。未だにフランス語などで国を運営していたらどんな不具合に陥るか、その桎梏と停頓と孤立は明らかで、時代について行けず、国際社会で置いてけぼりの境遇になるのは必至のはずだ。早く英語と中国語を採用したマルチリンガルの国に移行しなくてはいけない。今後、アメリカは20世紀のフランスの位置になり、日本はマリやニジェールの如き国になるのではないか。アジアで地に足を着けて発展し繁栄するのは、タイやインドネシアなど中国と関係良好なRCEPの新興諸国だろう。
以上、思い浮かぶ三つのパターンを日本の将来図として並べてみた。勿論、この三つ以外にもドラスティックな想定はある。一つは、グアム・サイパンのようなアメリカ準州となる運命である。十分あり得る。もう一つは、最近では5chでも喋々され始めたところの、日本自治区→東海和族自治区→東海省となる厳しい歴史的運命である。民族の完全消滅。あるいはまた、その中間というか、東京を含む東日本が前者の範疇となり、箱根・伊豆から先の、フォッサマグナの縦線で切断された西日本が後者となる分割の事態もあるだろう。戦争を選んでしまうと、その最悪のコースに進む可能性が高くなる。決して悪い冗談ではなく。