投稿者 : 高井弘之
この半年ほどの間、政府・自治体やメディアは、検査「陽性者」の数に焦点をあて、その数が増えれば危機・危険を声高に語るという状況が続いている。「第二波」の到来と騒がれ出した現在の状況をつくり出したのもまたこの「陽性者数の増加」である。
しかし、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)に関して「陽性」であることが、「COVID-19」という病気として名づけられた症状との関係で何を意味するかについては語られない。結核菌やコレラ菌を保有する(―感染している)人たちの中のごくごく一部の人しか結核やコレラという病気の症状を発生させず、「SARS」(の症状)であると診断された人で「SARS-CoV(サーズコロナウイルス)」を検出されなかった人が多くいたように、病原体と見なされたものと病気(症状)の関係はイコールでは結ばれないようである。
「コロナ」陽性者の大部分が無症状か軽症で、重症化する人のほとんどが持病のある人や高齢者であることを考えると、素人目にも、「COVID-19」の重い症状を発生させるのは、新型コロナウイルス単独ではなく、複合的な要因であると判断せざるを得ない。また、陽性―無症状者の感染(能)力に関してもいまだ正確な実態は判明していない。
以上であるにも関わらず、「政府・専門家」権力やマスメディアは、当ウイルスの存在の有無だけを焦点化させ、その陽性者を「感染源」と見なして重大視―深刻視する。そして、社会からの非難を恐れて行方不明となった陽性者を保健所と警察が一体となって「捜索」までするのである。
このような状況から、陽性者を「犯罪者―加害者」のように非難し糾弾する状況がこの日本社会で広がっている。むろん、陽性―病原体と病気の因果関係がはっきりしていても、陽性者に対するこのような「加害者」視は決して許されないが、いまの日本では、新型コロナウイルス「陽性」の意味することは明確に問われぬまま、上のような状況が繰り広げられている。
――リスクを制御することだけを社会全体の目的とするなら、多元的な価値と民主的討論に基づいた政治は必要なくなり、生物医学的な専門知によって、人間の群れの行動を制御する生政治だけが残される。選挙で選ばれたわけではない専門家会議に意志決定を委ね、非常事態を宣言し、移動の自由を制限する隔離・検疫を行い、ときにはプライバシー権を制限して接触者追跡を行うことは、群れをコントロールする生政治の技術としてみれば効率的だ。だが、それでは「犬猫同様の始末」だ。――(美馬達哉著『感染症社会―アフターコロナの生政治―』)
この半年ほどの間、政府・自治体やメディアは、検査「陽性者」の数に焦点をあて、その数が増えれば危機・危険を声高に語るという状況が続いている。「第二波」の到来と騒がれ出した現在の状況をつくり出したのもまたこの「陽性者数の増加」である。
しかし、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)に関して「陽性」であることが、「COVID-19」という病気として名づけられた症状との関係で何を意味するかについては語られない。結核菌やコレラ菌を保有する(―感染している)人たちの中のごくごく一部の人しか結核やコレラという病気の症状を発生させず、「SARS」(の症状)であると診断された人で「SARS-CoV(サーズコロナウイルス)」を検出されなかった人が多くいたように、病原体と見なされたものと病気(症状)の関係はイコールでは結ばれないようである。
「コロナ」陽性者の大部分が無症状か軽症で、重症化する人のほとんどが持病のある人や高齢者であることを考えると、素人目にも、「COVID-19」の重い症状を発生させるのは、新型コロナウイルス単独ではなく、複合的な要因であると判断せざるを得ない。また、陽性―無症状者の感染(能)力に関してもいまだ正確な実態は判明していない。
以上であるにも関わらず、「政府・専門家」権力やマスメディアは、当ウイルスの存在の有無だけを焦点化させ、その陽性者を「感染源」と見なして重大視―深刻視する。そして、社会からの非難を恐れて行方不明となった陽性者を保健所と警察が一体となって「捜索」までするのである。
このような状況から、陽性者を「犯罪者―加害者」のように非難し糾弾する状況がこの日本社会で広がっている。むろん、陽性―病原体と病気の因果関係がはっきりしていても、陽性者に対するこのような「加害者」視は決して許されないが、いまの日本では、新型コロナウイルス「陽性」の意味することは明確に問われぬまま、上のような状況が繰り広げられている。
――リスクを制御することだけを社会全体の目的とするなら、多元的な価値と民主的討論に基づいた政治は必要なくなり、生物医学的な専門知によって、人間の群れの行動を制御する生政治だけが残される。選挙で選ばれたわけではない専門家会議に意志決定を委ね、非常事態を宣言し、移動の自由を制限する隔離・検疫を行い、ときにはプライバシー権を制限して接触者追跡を行うことは、群れをコントロールする生政治の技術としてみれば効率的だ。だが、それでは「犬猫同様の始末」だ。――(美馬達哉著『感染症社会―アフターコロナの生政治―』)