●木下昌明の映画の部屋 第264回 : ラジ・リ監督『レ・ミゼラブル』
パリ郊外に生まれた〝植民地″
ラジ・リ監督の『レ・ミゼラブル』には驚かされた。それは、この映画が脱走囚のジャン・バルジャンと孤児コゼット、ジャベール警部のドラマではなく、登場人物も有名な俳優陣は出てこないで、名前の知らない黒人が多かったことだ。
ドラマの季節は暑い夏で、パリ中心部の凱旋門の大通りを人々が埋めつくすシーンからはじまる。そこにはなんと白人と黒人が入りまじり、人種のるつぼと化している。この画面に圧倒された。これは2018年のサッカーW杯でフランスの優勝を祝うのにつめかけた若者たちなのだ。みんな国旗をふり、国歌をうたって我がことのように喜びあう。
このあと舞台はがらりと転換して、パリ郊外のモンフェルメイユという実在の街が出てくる。そこはかつてビクトル・ユゴーが住み、『レ・ミゼラブル』という大作をかいた街なのだそうな。いまや、そんな面影はどこにもみられない。高い集合住宅のビルばかりが林立している。そこをいましも白人二人と黒人一人の警官をのせたパトカーが巡回していく。この三人が主要人物で、パトカーは街で出会う子どもたちやバス停の人々に声をかけたり、言いがかりをつけたり。相手はほとんどが黒人で、ニューヨークのブルックリンの一角かと思わせる。
その街でささやかな事件が起きる。サーカスのライオンの子が盗まれたのだ。サーカス団のロマ族の屈強な男たちが市長に抗議に押しかけ、一触即発の状態になる。ところがその市長が、なんとハンチング帽にTシャツで少しも市長らしくない黒人ときている。街にはさまざまな国からの移住者がいて複雑このうえない。いつからフランスはこんなに変わったのか――ユゴーの描いた貧困層の世界は、時代が変わっても現前とあるが、しかしその様相の変わりようはどうだろう。監督のラジ・リは、この街を舞台に新しいレ・ミゼラブルを描きたかったのだろう。
実は、監督自身も、この街で生まれ育った黒人なのだ。かれは劇映画をつくる前に、この街のドキュメンタリーをつくっているという。だから劇映画でもドキュメンタリーとみまがうドラマを展開している。その息づまる鮮烈なラストに、わたしはフランスでいま起きている反政府のたたかいと重ねてみた。
二〇世紀半ば〝第三世界″とよばれたアジア・アフリカ・ラテンアメリカが植民地解放の声を上げた時代があり、フランスの植民地だったアルジェリアの独立運動も起きた。それは熾烈なたたかいだった。そのたたかいに焦点をあてたイタリアのジッロ・ポンテコルヴォ監督の『アルジェの戦い』(67年)という傑作も生まれ、日本でも評判になったことがある。
その後、紆余曲折をへながらフランス語圏の植民地だった国々からフランスに移住してきた人々がいた。それら移民の多くはパリ郊外に住みついた。何本かのフランス映画はその変化の一面を描いている。
たとえばマチュー・カソヴィッツ監督の『憎しみ』(95年)は、パリ郊外のバンリューという移民地区を舞台に、自警団や警官と若者たちが人種問題で争う映画。ローラ・カンテ監督の『パリ20区、僕たちのクラス』(10年)は、中学の教室を舞台に、フランス人、アフリカ人、アラブ人、中国人など皮膚の色も服装もばらばらの子どもたちが一緒に授業している映画。この映画では舞台が教室に限定されていて、外の街は漠然と想像するしかなかったが、『レ・ミゼラブル』をみて、パリ郊外は多くの黒人の住民が占めて、それなりに管理されていることがわかった。古い空きビルの壁に落書きが多い光景をみると、一部スラム化している所もあり、フランス国外にあった植民地がいまや国内に移り変わったことがわかる。
実は、このように人種や民族についてかいてきたのは他でもない。先ごろ、日本の政治家で「二千年の長きにわたって一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない」とのたまった人物がいたからだ。かの有名なトンチンカンな副総理だが、それに対して『東京新聞』(1月18日号)の「本音のコラム」欄に、師岡(もろおか)カリーマが、日本は「複合民族」だと題して噛みついている。
師岡自身、自分は「人種のごった煮」だと明かす。父はエジプト人で、先祖にはロシアから中央アジア以南のアフリカ出身者がいると。また日本の母方の祖先は、モンゴルや東南アジア、朝鮮半島――と指摘する。そのうえで師岡は問う。「単一民族」の何が自慢なのか、と。その点、自分の「体の中に世界史が生きづいていて」かえって「謙虚な気持ちになる」と。「世界史が生きづいてる」なんてすてきな言葉ではないか。一つの民族を自慢するなんていかに時代錯誤か。
そういえば、先ごろイギリスの王室を離脱したヘンリー王子とメーガン妃がいる。メーガンの母親は黒人でアフリカ系のアメリカ人、父親はオランダとアイルランド系のアメリカ人。かれらにとって人種や血統、皮膚の色など何の意味もないのだろう。日本でもそのうち、黒人の天皇が誕生してもおかしくない時代がくるかもしれない。 一世紀前の「民族」を中心にした物の考え方はもう終わったのだ。資本が国境を越えて国々を荒らし回るようになれば、そこに住む人々も生きるために国境を越えていかざるをえなくなる。その意味で、現代版『レ・ミゼラブル』は、よくも悪くもグローバリゼーションが生みだした世界史の典型を表している。
※『レ・ミゼラブル』は2月28日より新宿武蔵野館、Bunkamuraル・シネマほかにて公開
〔追記〕これは『月刊東京』3月号より転載したものです。転載にあたって大幅にカットしました。
パリ郊外に生まれた〝植民地″
ラジ・リ監督の『レ・ミゼラブル』には驚かされた。それは、この映画が脱走囚のジャン・バルジャンと孤児コゼット、ジャベール警部のドラマではなく、登場人物も有名な俳優陣は出てこないで、名前の知らない黒人が多かったことだ。
ドラマの季節は暑い夏で、パリ中心部の凱旋門の大通りを人々が埋めつくすシーンからはじまる。そこにはなんと白人と黒人が入りまじり、人種のるつぼと化している。この画面に圧倒された。これは2018年のサッカーW杯でフランスの優勝を祝うのにつめかけた若者たちなのだ。みんな国旗をふり、国歌をうたって我がことのように喜びあう。
このあと舞台はがらりと転換して、パリ郊外のモンフェルメイユという実在の街が出てくる。そこはかつてビクトル・ユゴーが住み、『レ・ミゼラブル』という大作をかいた街なのだそうな。いまや、そんな面影はどこにもみられない。高い集合住宅のビルばかりが林立している。そこをいましも白人二人と黒人一人の警官をのせたパトカーが巡回していく。この三人が主要人物で、パトカーは街で出会う子どもたちやバス停の人々に声をかけたり、言いがかりをつけたり。相手はほとんどが黒人で、ニューヨークのブルックリンの一角かと思わせる。
その街でささやかな事件が起きる。サーカスのライオンの子が盗まれたのだ。サーカス団のロマ族の屈強な男たちが市長に抗議に押しかけ、一触即発の状態になる。ところがその市長が、なんとハンチング帽にTシャツで少しも市長らしくない黒人ときている。街にはさまざまな国からの移住者がいて複雑このうえない。いつからフランスはこんなに変わったのか――ユゴーの描いた貧困層の世界は、時代が変わっても現前とあるが、しかしその様相の変わりようはどうだろう。監督のラジ・リは、この街を舞台に新しいレ・ミゼラブルを描きたかったのだろう。
実は、監督自身も、この街で生まれ育った黒人なのだ。かれは劇映画をつくる前に、この街のドキュメンタリーをつくっているという。だから劇映画でもドキュメンタリーとみまがうドラマを展開している。その息づまる鮮烈なラストに、わたしはフランスでいま起きている反政府のたたかいと重ねてみた。
二〇世紀半ば〝第三世界″とよばれたアジア・アフリカ・ラテンアメリカが植民地解放の声を上げた時代があり、フランスの植民地だったアルジェリアの独立運動も起きた。それは熾烈なたたかいだった。そのたたかいに焦点をあてたイタリアのジッロ・ポンテコルヴォ監督の『アルジェの戦い』(67年)という傑作も生まれ、日本でも評判になったことがある。
その後、紆余曲折をへながらフランス語圏の植民地だった国々からフランスに移住してきた人々がいた。それら移民の多くはパリ郊外に住みついた。何本かのフランス映画はその変化の一面を描いている。
たとえばマチュー・カソヴィッツ監督の『憎しみ』(95年)は、パリ郊外のバンリューという移民地区を舞台に、自警団や警官と若者たちが人種問題で争う映画。ローラ・カンテ監督の『パリ20区、僕たちのクラス』(10年)は、中学の教室を舞台に、フランス人、アフリカ人、アラブ人、中国人など皮膚の色も服装もばらばらの子どもたちが一緒に授業している映画。この映画では舞台が教室に限定されていて、外の街は漠然と想像するしかなかったが、『レ・ミゼラブル』をみて、パリ郊外は多くの黒人の住民が占めて、それなりに管理されていることがわかった。古い空きビルの壁に落書きが多い光景をみると、一部スラム化している所もあり、フランス国外にあった植民地がいまや国内に移り変わったことがわかる。
実は、このように人種や民族についてかいてきたのは他でもない。先ごろ、日本の政治家で「二千年の長きにわたって一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない」とのたまった人物がいたからだ。かの有名なトンチンカンな副総理だが、それに対して『東京新聞』(1月18日号)の「本音のコラム」欄に、師岡(もろおか)カリーマが、日本は「複合民族」だと題して噛みついている。
師岡自身、自分は「人種のごった煮」だと明かす。父はエジプト人で、先祖にはロシアから中央アジア以南のアフリカ出身者がいると。また日本の母方の祖先は、モンゴルや東南アジア、朝鮮半島――と指摘する。そのうえで師岡は問う。「単一民族」の何が自慢なのか、と。その点、自分の「体の中に世界史が生きづいていて」かえって「謙虚な気持ちになる」と。「世界史が生きづいてる」なんてすてきな言葉ではないか。一つの民族を自慢するなんていかに時代錯誤か。
そういえば、先ごろイギリスの王室を離脱したヘンリー王子とメーガン妃がいる。メーガンの母親は黒人でアフリカ系のアメリカ人、父親はオランダとアイルランド系のアメリカ人。かれらにとって人種や血統、皮膚の色など何の意味もないのだろう。日本でもそのうち、黒人の天皇が誕生してもおかしくない時代がくるかもしれない。 一世紀前の「民族」を中心にした物の考え方はもう終わったのだ。資本が国境を越えて国々を荒らし回るようになれば、そこに住む人々も生きるために国境を越えていかざるをえなくなる。その意味で、現代版『レ・ミゼラブル』は、よくも悪くもグローバリゼーションが生みだした世界史の典型を表している。
※『レ・ミゼラブル』は2月28日より新宿武蔵野館、Bunkamuraル・シネマほかにて公開
〔追記〕これは『月刊東京』3月号より転載したものです。転載にあたって大幅にカットしました。