甲斐淳二
【なぜ観客は泣くのか】
この映画を観て「後半ずっと泣いてしまいました」「二回ほど泣いてしまった」「あちこちで女性たちのすすり泣きが聞えた」という感想を聞いたり読んだりして、そんな陰気な映画は見たくないと思っていた。しかし、ケン・ローチ監督の作品は全部見ているつもりの私が、しかも来日の時にお目にかかっていながら、これだけ見ない訳にもいかない。遅まきながら、気を取り直して、目標を定めて観ることにした。
観客は、いったいなぜ、どこで泣くのだろうか。私は、一番後ろの席で、息をひそめて、観客の呼吸や気配を油断なく観察しながら、この映画を観始めた。
【主人公リッキーは個人事業主という究極の使い捨て労働者】
この映画の主人公リッキーは、イギリスのある中都市で運送業に携わる「個人事業主」だ。週6日、1日14時間も(過労死ラインを越えて)働き、実態上完全に発注主の支配下で労働力を提供しているのだが、「労働契約」ではないから、労働基準法に該当しない。過労死しようが個人の自己責任の問題で関係ない。独立した「個人事業主」としての「業務委託契約」であり、対価は賃金ではなく「運送料」である。配達件数で「運送料」が支払われるから、家族の生活を守るために、トイレに行く時間を惜しんで、尿瓶(しびん)を使って仕事する。
【委託契約と労働契約との違いにとまどうリッキー】
① 労働契約ではないので、仕事上で怪我をしても労災補償がない。
それどころか、仕事中の怪我で病院に行けば、契約違反として「違約金」という罰金が科せられる。怪我を負ったリッキーと病院に同行した妻が、病院にまで電話してきて違約金を請求する夫の会社に対して、ブチ切れるシーンがある。
② 労働者ではないから最低賃金制度も適用されない。最初は家が建つほど稼げると宣伝して募集し、やがて「運送料」は徐々に切り下げられる。いやならやめろという一方的な通告だ。(日本のクリーニング業界の「個人オーナー」の場合、時給に換算すると最低賃金を下回るケースもあるらしい)
③ 労働契約ではないから、労働組合も団体交渉も認めない。対等の契約とは名ばかりの一方的な支配従属関係で、交渉や話し合いの余地はなく、気に入らなければ契約破棄。
④ 労働者ではないから、有給休暇も認めない、無給休暇も認めない。何らかの事情で仕事を休む場合は代わりの者を連れてくることを義務つけ、違約金、制裁金を付加する。映画の中で、主人公が会社に対して「7日間休ませてくれ」「5日間でもいい」「せめて・・・」と哀願して、拒否されるリッキーの姿が哀れである。
⑤ 仕事の請負の実績が悪い個人事業者、待遇に苦情を述べる個人事業者は委託契約を打ち切られる。事実上の「解雇」なのだが、労働者ではないから、解雇手当も支払わない。このようにして、仲間の一人が排除され、その仕事をリッキーが請け負う。稼ぎは増えるが、益々いそがしくなる。尿瓶を使いながら、走り回るリッキー。
(【自由な働き方】を絶賛する日本の財界と政府。
安部首相が議長を務める経済界代表との成長戦略会議「未来投資会議」はこうした働き方を「組織の中に閉じ込められて固定されている人の解放」だと絶賛している。「解放」とは恐れ入ったが、これは経営者側からみれば、確かに「労働基準法からの解放」であり、「使い捨ての自由」の獲得に他ならない。
スマホとバイクで料理宅配のウーパーイーツ、クリーニング業界などでは日本でもでも現実に進行している。※)
【妻は派遣の訪問介護士】・・・朝7時半から夜9時まで
妻も訪問介護に心身共にボロボロに疲れ切っている。次から次へと仕事が入り、振り回され、楽しみにしていた家族の時間も思うようにならない。子供と過ごす時間もなかなか取れない。
『8時間労働制は、一体どうしたの?』・・・
・・・映画のセリフに現れたケンローチ監督の問題提起・・・
訪問介護先の女性が忙しそうな妻のスケジュール表を見て驚く。
「朝の7時半から夜9時までの仕事なんて、どういうこと、いったい8時間労働制はどうなったの」と叫ぶ。
このセリフにケンローチ監督の問題提起がある。この映画の根本的なテーマだ。労働者が血を流して勝ち取った8時間労働制はどこに行ったのか、メーデーは何だったのか!?
【超勤手当ゼロのただ働きを強いられる妻】
心優しい妻は、老人を自分の親だと思って介護するというのがモットー。糞尿にまみれた老人を、時間ですからといって、ほったらかしにして帰るわけにはいかない。訪問先の介護の為に発生した超過労働、妻は手当を付けてくれと会社に頼んだが無視される。またもタダ働きさせられて、その理不尽さに妻の顔に涙があふれる。その悔しさに我が身を傘ね、感情移入してすすり泣く人もいる。場面は違っても、多かれ少なかれ同じような経験をしている人は少なくないだろう。
【家族の関係】
週六日、一日14時間働く夫婦。高校生の息子は問題を起こす。両親が学校に呼び出されるが、仕事を休めば制裁金がかかる、代わりを見つけるまで休ませてくれない。家族の中に亀裂が入る。どうすれば元の家族に戻れるのか?・・・幼い妹は心を痛めて、予想もしない行動に出る。ここも思わずジンと来るシーンだ。
ケンローチ監督の凄腕は、この家族の描き方において冴えわたっている。
【ラストシーン】
怪我を負った父親が、不在通知の紙にメモを書き残して、朝早く車で出かけようとする。気づいた息子が必死に止める。父と険悪になっていた息子がいかに父を愛しているかが伝わってくる。妻も止める。
しかし、男は「このままではお前たちは借金を背負って大変な事になる」と言って、振り切っていく。いったい彼はどこに向かったのだろうか?
男は、借金地獄に追い込んだ会社への報復行動に出るのか、それともこの境遇からの脱出を図るのか?どちらでもない。
男はこの借金地獄から家族を救うために、再び蟻地獄に自ら飛び込み、委託の仕事に向かって行く。報復もせず、脱出もせず、おめおめと仕事に戻っていく。その姿が、この映画を一層悲しくさせる。そして、それが現実なのだと観客は思い知る。この一家の行く先は、明るい未来など見えてはこない。
現代社会の残酷さ、新自由主義の残忍性と、その中でもがく民衆の姿を見事に抉り出してくれる。この映画は単なる社会批判や風刺ではない。家族が葛藤し、時に険悪になりながらも、寄り添って生きて行く姿に、多くの人が涙する。夫婦、親子、兄弟の人情の機微を描いた映画なのだ。さすがにケンローチだと思う。
【いったん引退したはずのケンローチがなぜこの映画を】
「私はダニエルブレイク」を最後に引退声明を出していたケンローチ監督が、この映画を撮ったのは、宅配ドライバーの交通事故死のニュースを見たからだそうだ。私にはまだやることがあると気を取り直したのだろう。
ケンローチ監督が見せてくれるのは、無理な仮想の設定ではなく、地味な現実の姿であり、それは、実は隣の家族かもしれない、あるいは向こうのアパートの家族かもしれない。日本でも宅配ドライバーの事故が記事になっている。
イギリスでも、韓国でも、日本でも現実に進行している雇用形態の破壊。非正規雇用の拡大。そして雇用ですらない「究極の使い捨て」の登場。「新自由主義」という資本による「搾取と収奪の自由化」が全面開花し、そのもとで労働者が貧困と格差に苦しみ、のたうち回って苦しんでいるのは、日本も韓国もイギリスも同じなのだ。「グローバル化」とはそういう意味だと、改めて感じる。
【結局、観客はどこで泣いたのか?】
観客はどこで泣くのか?そう思って見たこの映画の中には、観客がスクリーンの中に自分自身の姿を見出し、共感し、思わず泣いてしまうようなシーンは随所にある。そして、この蟻地獄から脱出の光が見えず、蟻地獄に再び飛び込んでいくリッキーの姿に、他人ごとではない悲しい共感を覚えるのだろう。
しかし、ケンローチ監督は元々、安易に希望を提示しようとしているのではない。このままでいいのですかと、問題提起しているのだ。それからどうするかは、映画に求めるものではない。現実世界で、あなたが解決するしかない、そう言いたいのだろう。
【映画館出れば虚構に満ちた街】・・・笑い筍さんの川柳より
「映画は虚構」、「映画館は虚構の空間」と思ってきたが、映画館の中でまぎれもない現実を見てしまった。
外に出てラーメン屋でビールを飲んでいると、NHKのテレビで安倍晋三首相が「一億総活躍時代」「女性の活躍する時代」「高齢者も働ける時代」「アベノミクスは・・・」などと、誇らしげに演説していた。
(キネマ旬報シネマ柏にて、すでに第7週目に突入。2月21日までの上映は確定。その後は未定。)
【なぜ観客は泣くのか】
この映画を観て「後半ずっと泣いてしまいました」「二回ほど泣いてしまった」「あちこちで女性たちのすすり泣きが聞えた」という感想を聞いたり読んだりして、そんな陰気な映画は見たくないと思っていた。しかし、ケン・ローチ監督の作品は全部見ているつもりの私が、しかも来日の時にお目にかかっていながら、これだけ見ない訳にもいかない。遅まきながら、気を取り直して、目標を定めて観ることにした。
観客は、いったいなぜ、どこで泣くのだろうか。私は、一番後ろの席で、息をひそめて、観客の呼吸や気配を油断なく観察しながら、この映画を観始めた。
【主人公リッキーは個人事業主という究極の使い捨て労働者】
この映画の主人公リッキーは、イギリスのある中都市で運送業に携わる「個人事業主」だ。週6日、1日14時間も(過労死ラインを越えて)働き、実態上完全に発注主の支配下で労働力を提供しているのだが、「労働契約」ではないから、労働基準法に該当しない。過労死しようが個人の自己責任の問題で関係ない。独立した「個人事業主」としての「業務委託契約」であり、対価は賃金ではなく「運送料」である。配達件数で「運送料」が支払われるから、家族の生活を守るために、トイレに行く時間を惜しんで、尿瓶(しびん)を使って仕事する。
【委託契約と労働契約との違いにとまどうリッキー】
① 労働契約ではないので、仕事上で怪我をしても労災補償がない。
それどころか、仕事中の怪我で病院に行けば、契約違反として「違約金」という罰金が科せられる。怪我を負ったリッキーと病院に同行した妻が、病院にまで電話してきて違約金を請求する夫の会社に対して、ブチ切れるシーンがある。
② 労働者ではないから最低賃金制度も適用されない。最初は家が建つほど稼げると宣伝して募集し、やがて「運送料」は徐々に切り下げられる。いやならやめろという一方的な通告だ。(日本のクリーニング業界の「個人オーナー」の場合、時給に換算すると最低賃金を下回るケースもあるらしい)
③ 労働契約ではないから、労働組合も団体交渉も認めない。対等の契約とは名ばかりの一方的な支配従属関係で、交渉や話し合いの余地はなく、気に入らなければ契約破棄。
④ 労働者ではないから、有給休暇も認めない、無給休暇も認めない。何らかの事情で仕事を休む場合は代わりの者を連れてくることを義務つけ、違約金、制裁金を付加する。映画の中で、主人公が会社に対して「7日間休ませてくれ」「5日間でもいい」「せめて・・・」と哀願して、拒否されるリッキーの姿が哀れである。
⑤ 仕事の請負の実績が悪い個人事業者、待遇に苦情を述べる個人事業者は委託契約を打ち切られる。事実上の「解雇」なのだが、労働者ではないから、解雇手当も支払わない。このようにして、仲間の一人が排除され、その仕事をリッキーが請け負う。稼ぎは増えるが、益々いそがしくなる。尿瓶を使いながら、走り回るリッキー。
(【自由な働き方】を絶賛する日本の財界と政府。
安部首相が議長を務める経済界代表との成長戦略会議「未来投資会議」はこうした働き方を「組織の中に閉じ込められて固定されている人の解放」だと絶賛している。「解放」とは恐れ入ったが、これは経営者側からみれば、確かに「労働基準法からの解放」であり、「使い捨ての自由」の獲得に他ならない。
スマホとバイクで料理宅配のウーパーイーツ、クリーニング業界などでは日本でもでも現実に進行している。※)
【妻は派遣の訪問介護士】・・・朝7時半から夜9時まで
妻も訪問介護に心身共にボロボロに疲れ切っている。次から次へと仕事が入り、振り回され、楽しみにしていた家族の時間も思うようにならない。子供と過ごす時間もなかなか取れない。
『8時間労働制は、一体どうしたの?』・・・
・・・映画のセリフに現れたケンローチ監督の問題提起・・・
訪問介護先の女性が忙しそうな妻のスケジュール表を見て驚く。
「朝の7時半から夜9時までの仕事なんて、どういうこと、いったい8時間労働制はどうなったの」と叫ぶ。
このセリフにケンローチ監督の問題提起がある。この映画の根本的なテーマだ。労働者が血を流して勝ち取った8時間労働制はどこに行ったのか、メーデーは何だったのか!?
【超勤手当ゼロのただ働きを強いられる妻】
心優しい妻は、老人を自分の親だと思って介護するというのがモットー。糞尿にまみれた老人を、時間ですからといって、ほったらかしにして帰るわけにはいかない。訪問先の介護の為に発生した超過労働、妻は手当を付けてくれと会社に頼んだが無視される。またもタダ働きさせられて、その理不尽さに妻の顔に涙があふれる。その悔しさに我が身を傘ね、感情移入してすすり泣く人もいる。場面は違っても、多かれ少なかれ同じような経験をしている人は少なくないだろう。
【家族の関係】
週六日、一日14時間働く夫婦。高校生の息子は問題を起こす。両親が学校に呼び出されるが、仕事を休めば制裁金がかかる、代わりを見つけるまで休ませてくれない。家族の中に亀裂が入る。どうすれば元の家族に戻れるのか?・・・幼い妹は心を痛めて、予想もしない行動に出る。ここも思わずジンと来るシーンだ。
ケンローチ監督の凄腕は、この家族の描き方において冴えわたっている。
【ラストシーン】
怪我を負った父親が、不在通知の紙にメモを書き残して、朝早く車で出かけようとする。気づいた息子が必死に止める。父と険悪になっていた息子がいかに父を愛しているかが伝わってくる。妻も止める。
しかし、男は「このままではお前たちは借金を背負って大変な事になる」と言って、振り切っていく。いったい彼はどこに向かったのだろうか?
男は、借金地獄に追い込んだ会社への報復行動に出るのか、それともこの境遇からの脱出を図るのか?どちらでもない。
男はこの借金地獄から家族を救うために、再び蟻地獄に自ら飛び込み、委託の仕事に向かって行く。報復もせず、脱出もせず、おめおめと仕事に戻っていく。その姿が、この映画を一層悲しくさせる。そして、それが現実なのだと観客は思い知る。この一家の行く先は、明るい未来など見えてはこない。
現代社会の残酷さ、新自由主義の残忍性と、その中でもがく民衆の姿を見事に抉り出してくれる。この映画は単なる社会批判や風刺ではない。家族が葛藤し、時に険悪になりながらも、寄り添って生きて行く姿に、多くの人が涙する。夫婦、親子、兄弟の人情の機微を描いた映画なのだ。さすがにケンローチだと思う。
【いったん引退したはずのケンローチがなぜこの映画を】
「私はダニエルブレイク」を最後に引退声明を出していたケンローチ監督が、この映画を撮ったのは、宅配ドライバーの交通事故死のニュースを見たからだそうだ。私にはまだやることがあると気を取り直したのだろう。
ケンローチ監督が見せてくれるのは、無理な仮想の設定ではなく、地味な現実の姿であり、それは、実は隣の家族かもしれない、あるいは向こうのアパートの家族かもしれない。日本でも宅配ドライバーの事故が記事になっている。
イギリスでも、韓国でも、日本でも現実に進行している雇用形態の破壊。非正規雇用の拡大。そして雇用ですらない「究極の使い捨て」の登場。「新自由主義」という資本による「搾取と収奪の自由化」が全面開花し、そのもとで労働者が貧困と格差に苦しみ、のたうち回って苦しんでいるのは、日本も韓国もイギリスも同じなのだ。「グローバル化」とはそういう意味だと、改めて感じる。
【結局、観客はどこで泣いたのか?】
観客はどこで泣くのか?そう思って見たこの映画の中には、観客がスクリーンの中に自分自身の姿を見出し、共感し、思わず泣いてしまうようなシーンは随所にある。そして、この蟻地獄から脱出の光が見えず、蟻地獄に再び飛び込んでいくリッキーの姿に、他人ごとではない悲しい共感を覚えるのだろう。
しかし、ケンローチ監督は元々、安易に希望を提示しようとしているのではない。このままでいいのですかと、問題提起しているのだ。それからどうするかは、映画に求めるものではない。現実世界で、あなたが解決するしかない、そう言いたいのだろう。
【映画館出れば虚構に満ちた街】・・・笑い筍さんの川柳より
「映画は虚構」、「映画館は虚構の空間」と思ってきたが、映画館の中でまぎれもない現実を見てしまった。
外に出てラーメン屋でビールを飲んでいると、NHKのテレビで安倍晋三首相が「一億総活躍時代」「女性の活躍する時代」「高齢者も働ける時代」「アベノミクスは・・・」などと、誇らしげに演説していた。
(キネマ旬報シネマ柏にて、すでに第7週目に突入。2月21日までの上映は確定。その後は未定。)