『増補 普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊』(クリストファー・R・ブラウニング 著、谷 喬夫 訳、ちくま学芸文庫、1600円)/評者:大西赤人
近年では、「ダイバーシティ(多様性)」なる概念が重視され、言わばそれと対立する「普通」とはそもそも何なのか、むしろ人間には、「普通」という定理めいた基準自体が無いのではないか、という趣旨の捉え方が広まりつつあるように思う(それは、より以前から存在した――健常者と障害者との等化に代表される――「ノーマライゼーション」という考え方の発展形のようにも見える)。しかしながら、大西自らを振り返っても、日常何かにつけて、「フツーじゃないな」とか「フツー××するだろう」とかの表現は、未だについつい口を衝《つ》いてしまいがちである。当然ながら人の多様性は尊重されるべきにせよ、その上で、「一般」「大抵」「通常」「原則」――あるいは一層曖昧で、しかし便利に使われる「みんな」――のように、集団における一定多数派を措定した把握を完全に捨て去ることは困難であるように思う。
『普通の人びと』という極めて平凡な題名である本書(原題も”Ordinary Men”)は、1992年に米国で出版、1997年に日本語訳も発行されて大きな話題となった一冊である。第二次大戦下、一般市民を中心に編成された第101警察予備大隊が、いかにして、なぜ多数のユダヤ人虐殺を実行したか(し得たか)を戦後における戦争犯罪裁判記録――とりわけ隊員たちの証言――に基づき、丹念に検討している。今回の新訳は、原著出版時に(一部の研究者から)受けた激しい批判への反論である「あとがき」(1997年)、その後に現われた様々な研究を俯瞰する「二五年の後で」(2017年)を追加した増補版である。
際立った暴力性、攻撃性を持つわけではなく、銃後の家庭や社会においては平穏な生活を送っていた「普通」の人間が、戦地において別人のような残虐な所業に及ぶという例は、しばしば見聞きするところであり、むしろ通俗的なパターンでさえあるかもしれない。しかし、ブラウニングが採り上げたハンブルグ連邦検察庁による――1962年から1972年まで十年に及んだ――120名以上の隊員に対する詳細な司法尋問調書の内容は、あまりにも鮮烈かつ迫真的である(ただし著者は、訴追された隊員たちのそれらの証言が、記憶の混乱はもとより、保身や同僚への配慮などの要素によって歪められている可能性についても常に留意している)。
そもそも大西は、アウシュビッツやトレブリンカをはじめとする「強制収容所(あるいは『絶滅収容所』)」における主にガス室を用いたいわゆる「ユダヤ人問題の最終的解決」に関しては幾分の知識があったものの、本書に描かれたポーランド地域での通常警察官によるユダヤ人虐殺については、全く無知であった。けれども現実には、約五百名の第101警察予備大隊だけでも約三万八千人、十二の警察予備大隊を合わせれば六十万人以上のユダヤ人を「普通の人びと」が〝直接的〟に射殺(処刑)し、五十万人以上のユダヤ人を死が約束された「絶滅収容所」へと送り届けたというのである(ポーランドにおけるユダヤ人の全犠牲者数は、約三百万人と推定されている。また、ロシアやポーランドの民間人、あるいはパルチザンの殺害は、大隊の所業に数えられていない)。
ハンブルクの労働者階級及び下層中産階級出身者がほとんどを占め、平均年齢39歳だった第101警察予備大隊の隊員たちは、総てが積極的に虐殺に勤《いそ》しんだわけではない。当初は大隊長も苦渋に涙を流し、隊員の希望を認めて任務から外しさえした。しかし、殺戮が度重なり、しかも規模が急激に増大するにつれ、犠牲者の非人格化が進み、人を殺すことの異常性は薄れて行く。隊員の中には、好んで殺害する一部の者、命令に従って受動的に殺害する多数の者、〝臆病者〟とそしられることに甘んじながら可能な限り殺害を回避する少数の者が存在した。しかし、一度も虐殺に手を染めなかった隊員は皆無であったという。
著者は、彼らの行動は、ナチの「反ユダヤ主義」による洗脳の結果というような単純なものではないとして、米国や日本を含めた戦時残虐行為を引きながら、その普遍性――まさに「普通の人びと」がそれを行なうに至る可能性――を複合した要因とともに分析し、読む者に我が身を振り返らせる。このような後年における実証的検証作業を成立させる条件は、たとえ乏しくとも確実な資料の存在であり、その作業が反復している国々に較べて、日本の現状には様々な意味でうそ寒さを感じてしまう。
証言の中で非常に印象的だったものは、「私は努力し、子どもたちだけは撃てるようになったのです」というある隊員の述懐だった。彼は、母親を同僚に撃たせ、自らは彼女の子供を撃った。 「母親がいなければ結局その子供も生きてはゆけないのだと、自分で自分を納得させたからです。いうならば、母親なしに生きてゆけない子供たちを苦しみから解放(release)することは、私の良心に適うことだと思われたのです」
ブラウニングは、releaseはドイツ語ではerlösenであり、宗教的には「救済する(redeem)」または「救い出す(save)」を意味するとして―― 「『苦しみから解放する』者は救済者(Erlöser)―救世主(the Savior)ないし救い主(the Redeemer)、なのである!」 ――と綴っている。
この「普通の人びと」の一人である隊員による論理は、相模原障害者施設殺傷事件の犯人が述べていた論理と実に相似してはいないだろうか?
*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美、根岸恵子、杜海樹、ほかです。
近年では、「ダイバーシティ(多様性)」なる概念が重視され、言わばそれと対立する「普通」とはそもそも何なのか、むしろ人間には、「普通」という定理めいた基準自体が無いのではないか、という趣旨の捉え方が広まりつつあるように思う(それは、より以前から存在した――健常者と障害者との等化に代表される――「ノーマライゼーション」という考え方の発展形のようにも見える)。しかしながら、大西自らを振り返っても、日常何かにつけて、「フツーじゃないな」とか「フツー××するだろう」とかの表現は、未だについつい口を衝《つ》いてしまいがちである。当然ながら人の多様性は尊重されるべきにせよ、その上で、「一般」「大抵」「通常」「原則」――あるいは一層曖昧で、しかし便利に使われる「みんな」――のように、集団における一定多数派を措定した把握を完全に捨て去ることは困難であるように思う。
『普通の人びと』という極めて平凡な題名である本書(原題も”Ordinary Men”)は、1992年に米国で出版、1997年に日本語訳も発行されて大きな話題となった一冊である。第二次大戦下、一般市民を中心に編成された第101警察予備大隊が、いかにして、なぜ多数のユダヤ人虐殺を実行したか(し得たか)を戦後における戦争犯罪裁判記録――とりわけ隊員たちの証言――に基づき、丹念に検討している。今回の新訳は、原著出版時に(一部の研究者から)受けた激しい批判への反論である「あとがき」(1997年)、その後に現われた様々な研究を俯瞰する「二五年の後で」(2017年)を追加した増補版である。
際立った暴力性、攻撃性を持つわけではなく、銃後の家庭や社会においては平穏な生活を送っていた「普通」の人間が、戦地において別人のような残虐な所業に及ぶという例は、しばしば見聞きするところであり、むしろ通俗的なパターンでさえあるかもしれない。しかし、ブラウニングが採り上げたハンブルグ連邦検察庁による――1962年から1972年まで十年に及んだ――120名以上の隊員に対する詳細な司法尋問調書の内容は、あまりにも鮮烈かつ迫真的である(ただし著者は、訴追された隊員たちのそれらの証言が、記憶の混乱はもとより、保身や同僚への配慮などの要素によって歪められている可能性についても常に留意している)。
そもそも大西は、アウシュビッツやトレブリンカをはじめとする「強制収容所(あるいは『絶滅収容所』)」における主にガス室を用いたいわゆる「ユダヤ人問題の最終的解決」に関しては幾分の知識があったものの、本書に描かれたポーランド地域での通常警察官によるユダヤ人虐殺については、全く無知であった。けれども現実には、約五百名の第101警察予備大隊だけでも約三万八千人、十二の警察予備大隊を合わせれば六十万人以上のユダヤ人を「普通の人びと」が〝直接的〟に射殺(処刑)し、五十万人以上のユダヤ人を死が約束された「絶滅収容所」へと送り届けたというのである(ポーランドにおけるユダヤ人の全犠牲者数は、約三百万人と推定されている。また、ロシアやポーランドの民間人、あるいはパルチザンの殺害は、大隊の所業に数えられていない)。
ハンブルクの労働者階級及び下層中産階級出身者がほとんどを占め、平均年齢39歳だった第101警察予備大隊の隊員たちは、総てが積極的に虐殺に勤《いそ》しんだわけではない。当初は大隊長も苦渋に涙を流し、隊員の希望を認めて任務から外しさえした。しかし、殺戮が度重なり、しかも規模が急激に増大するにつれ、犠牲者の非人格化が進み、人を殺すことの異常性は薄れて行く。隊員の中には、好んで殺害する一部の者、命令に従って受動的に殺害する多数の者、〝臆病者〟とそしられることに甘んじながら可能な限り殺害を回避する少数の者が存在した。しかし、一度も虐殺に手を染めなかった隊員は皆無であったという。
著者は、彼らの行動は、ナチの「反ユダヤ主義」による洗脳の結果というような単純なものではないとして、米国や日本を含めた戦時残虐行為を引きながら、その普遍性――まさに「普通の人びと」がそれを行なうに至る可能性――を複合した要因とともに分析し、読む者に我が身を振り返らせる。このような後年における実証的検証作業を成立させる条件は、たとえ乏しくとも確実な資料の存在であり、その作業が反復している国々に較べて、日本の現状には様々な意味でうそ寒さを感じてしまう。
証言の中で非常に印象的だったものは、「私は努力し、子どもたちだけは撃てるようになったのです」というある隊員の述懐だった。彼は、母親を同僚に撃たせ、自らは彼女の子供を撃った。 「母親がいなければ結局その子供も生きてはゆけないのだと、自分で自分を納得させたからです。いうならば、母親なしに生きてゆけない子供たちを苦しみから解放(release)することは、私の良心に適うことだと思われたのです」
ブラウニングは、releaseはドイツ語ではerlösenであり、宗教的には「救済する(redeem)」または「救い出す(save)」を意味するとして―― 「『苦しみから解放する』者は救済者(Erlöser)―救世主(the Savior)ないし救い主(the Redeemer)、なのである!」 ――と綴っている。
この「普通の人びと」の一人である隊員による論理は、相模原障害者施設殺傷事件の犯人が述べていた論理と実に相似してはいないだろうか?
*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美、根岸恵子、杜海樹、ほかです。