高井です。
以下、天皇制をめぐる現況への雑感です。
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現憲法では、あるいは、「民主主義」では、市民・民衆が〈主体〉であり〈主権者〉であり、自らが「仕え」なければならない存在などいない。そうであるにもかかわらず、なぜ、こんなにも嬉々として、自ら進んで、天皇の臣民ー「赤子」となるのだろう。下記の歌のことである。
「独立不羈」とか「不逞」とか「抵抗」とか「反乱」とか、そんな言葉や精神が溢れ躍動する胸躍る社会の対極にある不気味で薄気味悪い歌と風景。
「奴隷」とは、そうあることを、自らの意思に反して強いられている存在ー「身分」だと思うが(ーだから、そこから脱するための抵抗や解放への闘いが歴史的に存在した)、21世紀のこの列島には、自ら進んで、かつ、喜んで、あるいは、それが「光栄」でもあるかのように、天皇の「奴隷」となる人々の列が長々と続き、横にも幾重にも広がっている。これはどこへ向かう葬列だろう。
下記の文章の後半は、さらにショックである。政府に抗い、異議を唱え続けてきたあなたもまた、「天皇の臣下」だったのか・・。そのことと、「主権者」として自ら行って来た政府へのレジスタンスとの間に何らの疑問も持たず、進んでこのような文章を公表できる人だったのか。この数年間、繰り返し体験してきた「ショック」の新たなページである。
現憲法において、主権者である私たちと、「象徴の地位」にある天皇とは、どのような関係にあるか。人民主権ー立憲主義からして、ごく当然の原理を、以下、拙著から引用させてほしい。
「人民主権―立憲主義においては、それら国王・国家機関は、『人民の意思』である憲法に従うことを大前提に創設されたものであり、それらは『主権者人民の意思』たる憲法によって縛られ、統制される存在である。
フランス革命(初期)においても、それまで人民を支配・統制していた絶対主義的国王は、人民(国民)の革命によってーー人民の定めた憲法によって、逆に、人民・国民に統制される存在へと変えられた。したがって、人民主権―立憲主義に基づけば、象徴天皇も、人民を主権者とする憲法によって『つくられた存在』であり、憲法によって統制されなければならない存在なのである。
・・・〈国体原理〉で人民のはるか『上位』にある天皇は、〈人民主権原理〉に基づく現憲法では人民の『下位』に位置しているものだ。人民主権―立憲主義においてはそうなるし、そうあらねばならないのである。」
(『民主主義にとって象徴天皇制とは何かー天皇制大讃美を目の前にしてー』より)
【以下、ブログ「アリの一言」より引用】
ー9日の徳仁天皇即位を祝う「国民祭典」。嵐が歌った「奉祝曲」・・。聞くに堪えなかった。
「君が笑えば世界は輝く 僕らのよろこびよ君に届け ごらんよ僕らは君のそばにいる 静かにつながって確かにつながって 大丈夫、君と笑ってゆく 大丈夫、君と歩いてゆこう」
恋の歌だと思った人がいるかもしれないが(嵐が歌うのでなおさら)、そうではない。これは天皇を称える歌だ。「君」とは天皇のこと、「僕ら」とは「国民」のことだ。そう読み替えると、ぞっとする。「君が笑えば世界は輝く」「君と歩いてゆこう」!これほどの天皇賛美、天皇への忠臣があるだろうか。これはまさしく現代版「君が代」だ。
・・「即位パレード」2日後の12日付沖縄タイムスに、作家・落合恵子氏の「両陛下へ」と題した「私信」なるものが掲載された。・・この中で落合氏は、「パレード」が延期されたことを「「国民に寄り添う」を具体化した意思」だと称賛し、「お二人に願うことは、お言葉(「正殿の儀」の言葉―引用者)で繰り返された平和を、ずっと希求される「象徴」であっていただきたい」と結んでいる。「象徴の折々の思いを、もっともっと率直に主権者たる私たちに投げかけられる機会もおつくりください」とも述べている。
・・「象徴の思い」とは何なのか。・・そもそも落合氏は「象徴天皇」の存在を前提にして天皇皇后に進言しているが、主権在民、基本的人権尊重の現憲法下でなぜ「象徴天皇」なるものが必要なのか。
「九条の会」として現憲法の平和・民主条項(原則)の擁護を目指しているなら、その原則に反する「象徴天皇制」自体を根本から問い直すべきではないのか。ー
https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/a943b40108969498908b5a02d52a326c?fbclid=I wAR0EboBbjjFeReqRv3bvFlLsfdV1Y9D1dF-B9JEYstz_B8RT7fCa4JMeHY
日曜日記75・岡田恵和の現代版「君が代」・落合恵子氏の勘違い - アリの一言
以下、天皇制をめぐる現況への雑感です。
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現憲法では、あるいは、「民主主義」では、市民・民衆が〈主体〉であり〈主権者〉であり、自らが「仕え」なければならない存在などいない。そうであるにもかかわらず、なぜ、こんなにも嬉々として、自ら進んで、天皇の臣民ー「赤子」となるのだろう。下記の歌のことである。
「独立不羈」とか「不逞」とか「抵抗」とか「反乱」とか、そんな言葉や精神が溢れ躍動する胸躍る社会の対極にある不気味で薄気味悪い歌と風景。
「奴隷」とは、そうあることを、自らの意思に反して強いられている存在ー「身分」だと思うが(ーだから、そこから脱するための抵抗や解放への闘いが歴史的に存在した)、21世紀のこの列島には、自ら進んで、かつ、喜んで、あるいは、それが「光栄」でもあるかのように、天皇の「奴隷」となる人々の列が長々と続き、横にも幾重にも広がっている。これはどこへ向かう葬列だろう。
下記の文章の後半は、さらにショックである。政府に抗い、異議を唱え続けてきたあなたもまた、「天皇の臣下」だったのか・・。そのことと、「主権者」として自ら行って来た政府へのレジスタンスとの間に何らの疑問も持たず、進んでこのような文章を公表できる人だったのか。この数年間、繰り返し体験してきた「ショック」の新たなページである。
現憲法において、主権者である私たちと、「象徴の地位」にある天皇とは、どのような関係にあるか。人民主権ー立憲主義からして、ごく当然の原理を、以下、拙著から引用させてほしい。
「人民主権―立憲主義においては、それら国王・国家機関は、『人民の意思』である憲法に従うことを大前提に創設されたものであり、それらは『主権者人民の意思』たる憲法によって縛られ、統制される存在である。
フランス革命(初期)においても、それまで人民を支配・統制していた絶対主義的国王は、人民(国民)の革命によってーー人民の定めた憲法によって、逆に、人民・国民に統制される存在へと変えられた。したがって、人民主権―立憲主義に基づけば、象徴天皇も、人民を主権者とする憲法によって『つくられた存在』であり、憲法によって統制されなければならない存在なのである。
・・・〈国体原理〉で人民のはるか『上位』にある天皇は、〈人民主権原理〉に基づく現憲法では人民の『下位』に位置しているものだ。人民主権―立憲主義においてはそうなるし、そうあらねばならないのである。」
(『民主主義にとって象徴天皇制とは何かー天皇制大讃美を目の前にしてー』より)
【以下、ブログ「アリの一言」より引用】
ー9日の徳仁天皇即位を祝う「国民祭典」。嵐が歌った「奉祝曲」・・。聞くに堪えなかった。
「君が笑えば世界は輝く 僕らのよろこびよ君に届け ごらんよ僕らは君のそばにいる 静かにつながって確かにつながって 大丈夫、君と笑ってゆく 大丈夫、君と歩いてゆこう」
恋の歌だと思った人がいるかもしれないが(嵐が歌うのでなおさら)、そうではない。これは天皇を称える歌だ。「君」とは天皇のこと、「僕ら」とは「国民」のことだ。そう読み替えると、ぞっとする。「君が笑えば世界は輝く」「君と歩いてゆこう」!これほどの天皇賛美、天皇への忠臣があるだろうか。これはまさしく現代版「君が代」だ。
・・「即位パレード」2日後の12日付沖縄タイムスに、作家・落合恵子氏の「両陛下へ」と題した「私信」なるものが掲載された。・・この中で落合氏は、「パレード」が延期されたことを「「国民に寄り添う」を具体化した意思」だと称賛し、「お二人に願うことは、お言葉(「正殿の儀」の言葉―引用者)で繰り返された平和を、ずっと希求される「象徴」であっていただきたい」と結んでいる。「象徴の折々の思いを、もっともっと率直に主権者たる私たちに投げかけられる機会もおつくりください」とも述べている。
・・「象徴の思い」とは何なのか。・・そもそも落合氏は「象徴天皇」の存在を前提にして天皇皇后に進言しているが、主権在民、基本的人権尊重の現憲法下でなぜ「象徴天皇」なるものが必要なのか。
「九条の会」として現憲法の平和・民主条項(原則)の擁護を目指しているなら、その原則に反する「象徴天皇制」自体を根本から問い直すべきではないのか。ー
https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/a943b40108969498908b5a02d52a326c?fbclid=I wAR0EboBbjjFeReqRv3bvFlLsfdV1Y9D1dF-B9JEYstz_B8RT7fCa4JMeHY
日曜日記75・岡田恵和の現代版「君が代」・落合恵子氏の勘違い - アリの一言