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「井手正敬」起訴を実現させた 遺族のひたむきな真相追及

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●「井手正敬」起訴を実現させた 遺族のひたむきな真相追及
今年の4月25日で、107名の命を奪い、562名を負傷させたJR西日本の尼崎事故から満5年である。その4月25日を目前とする、3月26日には、井手正敬JR西日本元会長と、二人の元社長(南谷昌二郎、垣内剛)が、尼崎事故の業務上過失致死傷容疑で起訴(神戸第一検察審査会による強制起訴)されることが決まった。

ついに、尼崎事故の「主犯」と目されているJR西日本のワンマン経営者だった井手正敬(写真)が、公開の法廷に、被告としてひきだされ、裁かれることになった。

同時に、井手正敬は、国鉄分割民営化犯罪のA級戦犯だ。その彼を被告とする尼崎事故刑事裁判は、国鉄分割民営化を検証し裁く場としての性格を色濃くすることになるだろう。尼崎事故問題と国鉄分割民営化問題は直結しているのである。

JR西日本の歴代元社長4人を全員起訴しての尼崎事故裁判がかちとられたことは事故の真相解明にとって画期的な前進である。この成果は遺族の皆さんが「おしきせの真相の断片」では、事故で命を奪われた家族の霊前に報告できないとして、あくまで「事故の真相」を追及しつづけたことによって獲得されたものだと、私は理解している。

●「事故調査報告」の逆立ち

尼崎事故の原因については、「事故調」(国交省の航空・鉄道事故調査委員会)の調査報告書にまとめられている。それを読めば真相がつかめるかというとそうはいかない。問題点を把握して、見解をまとめるという基本的作業をこなすだけでも、四苦八苦である。分厚い調査報告書は専門的な鉄道技術用語を羅列した難解きわまりない文章であり、それを読み通すのには大変な根気がいる。私は、鉄道事故問題の取材歴は長いが、もともと鉄道技術については素人なのだから、わかりが悪いのかと当初はおもっていたが、最近では、そうではなくて、「事故調査報告」は、世間一般の人々は読者として予定していないことに気がついた。

米国の事故調査委員会(NTSB)の事故調査報告書は誰にでもわかるように書かれている。皆にわかるような文章にするために、委員会には文章官がおり、その目を通して、わかりやすい文章にしないと発表できない。事故防止の在り方を決めるのは、世論だという考えが徹底しているからからだ。

日本はその逆だ、お上あるいは、権威ある専門家が、真相を調べて、被害者や一般国民に、知らしめてやる、知りたかったら素人にはわからんだろうが、調査報告を読んでみろ、という姿勢でいる。国交省やJRの幹部層にとって都合の悪い事実は隠蔽される。マスコミも評論家、学者もほとんど、「事故調査報告」について、当たり障りのないコメントしかしなかった。

私は、情報漏洩問題が発覚するずっと前に、「普通の人が読めないような調査報告は落第」という文章を発表した。その難解な文章の背後に、事故の真相を誤魔化している可能性も多々あることも指摘しておいた。特に、民営化と事故との関係に踏み込むことがタブーになっていることを批判した。これは、蛇足だが、事故調査報告書は、事故調査委員会自身ではなく、下請けに出されて、下請けが書いているという話しがある。

ところで、遺族の皆さんも、尼崎事故前までは、例外はあるだろうが、事故問題では、素人だったろう。ところが、この事故の被害者によるその「4.25ネットワーク」のニュースレターの文章や発言には、的確な問題提起がされていることに、私は、驚かされ、教えられた。

たとえば、事故調査報告の結論部分、「事故の原因」の記述は、どこからどこまでか、ということですら、調査委員会側の説明は曖昧もことして矛盾だらけとということが、指摘されていた。その確かな眼力に敬服するしかない。「真相を知りたい、真相を霊前に報告しなけれぱならない」ということで、大変な努力がされたのではないか。

●司法も「市民感覚」リードの時代へ

権威ある鉄道事故の公的調査機関か゜運輸安全委員会と検察である。両方とも公権力をバックとする高度の専門家集団。しかし、運輸安全委員会は、事故調査委員会の委員がJRに、事故調査情報をながし、報告書の内容を変える工作をしていたことが、いわゆる「漏洩問題」として発覚して信用を失った。

信頼できる調査機関とするのにはどうすべきかを、被害者の人たちが参加する「JR情報漏えい検証チーム」によって明らかにしてもらう、ことになっている。事故の調査には、専門的知識が必要な側面があることは間違いない、しかし、専門家委員会、あるいは、有識者会議といったものにもピンぴんからキリまである。その種の第三者委員会の名によって、「真相解明」どころか「真相隠し」がやられたケースが沢山ある。専門家集団の調査だから正しい、というものではない。

尼崎事故の刑事責任問題については、法律のプロである検察は、遺族告発の3人の元社長を不起訴にした。法律の専門家ほど、4元前社長の起訴に冷ややかである。これにたいして、市民のなかからくじ引きで選ばれた委員からなる検察審査会は、3社長の起訴を決定した。その議決は、“3社長は安全をまもる義務をおこたった。起訴は、市民感覚からして、当然”と明快にのべている。

法律や鉄道の専門家は必要である。しかし、専門家の真理、真実観が、市民の真理、真実観の上位にあるものではなく、むしろ、安全問題のような全ての市民の命にかかわる問題についての判断には市民感覚、世論が反映されることが特に重要だろう。

●国民とともに真相を追及する場としての裁判

マスコミのなかには、遺族に先導されて、井手正敬たち4元社長起訴となったことをとらえて、「被害者の処罰感情に迎合しすぎだ。起訴しても、有罪にはできない」と評する向きがあるが、皮相な見方だ。遺族が追及しているのは、むしろ、公開の裁判による真相解明の深化であり、国民の目の前で、法廷論争をたたかわせることで、国民に、事故の真相はなにかを判定することを求めていると、私は受け取っている。

検察の捜査資料の一部をみる機会があった遺族の藤崎光子さんは、「被害者に知らされていない驚くべき事実が捜査資料に詰まっていました。それが、裁判で明らかにされるだけでも、真相解明にブラスです」(要旨)と語ったと「毎日」3月27日号は伝えている。

検察審査会の議決で、強制起訴された井手ら3人の元社長の裁判では、検事役は、裁判所が指名する弁護士がになう。起訴した側は、もちん3被告の有罪判決をとることを目標にすえた法廷闘争を展開するだろう。現在の刑法では、業務上過失致死傷罪で、3元社長有罪判決をとるには、かなり高いハードルをこえなければならないことは確かだ。鉄道経営者が、安全手抜きをして、死傷事故を起こしても、その刑事責任を問われるのは、現場労働者、現場管理者であり、最も責任が重いはずの経営者は、起訴すらされず、無罪放免にされてきた。それでは、市民感覚からすと、不正義がまかりとおってきたということになる。不正義をとおさせる旧態然たる「法律と司法」のゆがみがあることは間違いない。

しかし、尼崎事故の真相が、法廷論争過程で世間にもわかるように、明らかにされ―それは、国鉄分割民営化と、その路線で暴走する経営陣の安全軽視の実体を明らかにすることでもあるーれば、その裁判を注目する多数の市民・活動家を介して、世論の多数が、井手を含む4人の元JR西日本の社長は有罪とうけとめることになるだろう。そうなれば、裁判所も、それを無視はてきなくなる。何が、正義かを、決めるのは、世論である。

●井手正敬の開き直りの弁

 起訴されることが決まった井手の反応をみてみよう。彼は起訴前には、ろくに遺族にも、謝罪も弁明もせず、事実上、社会に対して、完全黙秘をつらぬいていた。横綱審議委員という名誉職にも、居すわりつづけ、「オレに責任なし」と誇示してきた。

彼は自分ほどの、民営化に貢献してきた大物は、権力の城の奥深く保護される、起訴などありえない、と確信しての沈黙だったろう。ところが、自民党政権という、彼が頼りとしていた 城が落城してしまった。政権交代も、井手起訴におおいに影響している。

起訴が決定した翌日には、井手はこれまでとは、うってかわって「法廷では、最初から企業風土が悪かったわけではないことを、しっかり主張する」「企業体質がまちがっていたというのは、絶対に認めない、裁判で徹底して争う」とまくしたてている。

「効率・利益優先の企業体質」問題こそは、民営化問題とも直結する尼崎事故の核心部分である。井手にも、弁明の権利はある。彼に、言うだけ言わせて、告発側は、事実をもって論破することだ。

JRもちろん、マスコミも、支配層の側も、彼等の立場から、この裁判対策とキャンペーンに力をいれてくるのは必至だ。〝経営者が有罪なら鉄道の経営者になり手がなくなる〟などとすでにいいたてている。

これまでも、民営化と草の根からたたかっている国鉄闘争をはじめ、おおくの民営化災害(犯罪)の被害者の運動が「ノーモア・アマガサキ」を合い言葉として、遺族の闘いをパックアップしてきたが、遺族の尼崎事故裁判闘争を勝利させるための支援の運動を全国的に盛り立てたいものである。

●「ノーモア・アマガサキ」そのためには「民営化体質」の清算を

尼崎事故問題のけじめをキチンとつけるという問題は、決して、過去の問題ではなく、現在と将来の事故を未然に防ぐためには是非ともなさねばならぬことである。

信楽高原鉄道事故(死者42人 1991年5月14日))で妻を亡くした吉崎俊三さん(76)は、「あのとき、経営陣に刑事責任を取らせなかったことが、尼崎の事故につながった」はいっている。この言葉はかぎりなく重い。私も全く同感である。

私の国鉄・JR事故取材体験から実感としていることは、国鉄が解体され、JRに移行する4ヶ月前に、発生した余部鉄橋列車転落事故の反省をきちんとして、いたら、信楽事故も、尼崎事故も、避けられていたということである。

事故が発生したのは、国鉄末期だが、事故の性格はJR事故=民営化事故型だった。当時の国鉄本社は、安全第一だった国鉄の体質を「親方日の丸」のコスト意識のない体質と否定して、「効率・利益優先の民間企業の体質」に転換させると公言し、そのために、国家ぐるみの強圧を、国鉄に働く全員に加えた。その「重し」は、現在も除かれていない。「効率・利益優先の企業体質」を変えるには、この「国鉄分割民営化」という重石をとりのぞかねばならない。

たとえば、意識改革運動である。「意識改革が足りない」、と判定された職員はいくら腕がよくても、仕事熱心でも、JRに採用されない-国労に残っているのは意識改革不足と評価されたーとおどされたのである。実際に、1047名が、これで差別解雇された。(この問題は後で触れる)大合理化計画、職員の一旦全員解雇、新会社(JR)への選別採用である。この国鉄分割民営化政策の本当の狙いは、「国労つぶし」であり、「国労つぶし」は同時に、職場からの安全要求つぶしだった。信楽鉄道事故、尼崎事故のベースとなった「効率利益優先で、稼げ、急げ、止めるな、上には従え」とするJR体質は、国鉄改革の過程で、原型は基本的には形成されていたものである。

その危険な体質への転換を国鉄本社にあって、杉浦国鉄総裁に次ぐナンバー2として、企画・立案し、総指揮をとったのが、井手正敬である。「国鉄改革」という名の改革が、安全を危険にさらすものだと批判する専門家の声も、世論も、当時からかなり強くあった。 それに、杉浦国鉄総裁たちは、反論して、「人減らしをしても、機械化で安全は絶対まもる」と公約する、杉浦国鉄総裁の顔写真と署名いりの大量もバンフをばらまいたりした。

そのパンフがまかれた直後の12月28日に、余部鉄橋からの列車転落事故が発生した。橋上には30メートルを超える強風がふいており「列車を橋の上に出すな」との警報が福知山の運行指令室ではでていたが、誰も列車を止めようとしなかった。いや、金縛りにあったように、止めることができなかったのだ。余部事故の刑事裁判に検察側の証人として証言した元管理職の職員は「当時は民営化直前で、列車を止める職場の雰囲気ではなかった」と証言した。すこしでも列車を遅らせたら、その職員は、減点評価され、雇用を失いかねないプレッシャーが、強烈に加わっていたのである。尼崎事故におけるプレッシヤーシステム「日勤教育」の原型はここにすでにある。

「危険だと思える時は、先ず、列車を止めよ」「遅れても、危険な回復運転をするな」これが、安全第一の国鉄時代の精神であり、体質である。「安全綱領」にそれは明記されていた。ところが、中曽根・瀬島と組んで、国鉄本社をクーデター的に乗っ取った、井手を筆頭とする「国鉄改革3人組」は、以上のような、「安全綱領」的運行は、国労の職場闘争に利用されているとして、これを目の仇にした。30秒以上、理由なく列車を遅らせたら、その職員は処分である。理由があっても、いくらでも、上は「理由無しの遅延」として、処分できる。この時期の「処分」をくらうことは、首が危なくなることだった。

まさに、安全第一の国鉄の体質を、効率、利益優先の体質に転換し、鉄道員が、危険と思っても列車を止めれない体質へと変えたである。

これを、国鉄分割民営化といった。とすると、「利益・効率第一の経営体質」にしたのは、国鉄分割民営化政策そのものではないのか。国策が問題なのである。ポリシーエラーこそ問題なのである。「利益・効率第一の経営体質」を反省し、転換するには、国鉄分割民営化政策の見直し、清算、克服という問題に、そろそろ、正面から向き合うべき時ではないのか。(次回につつく)

■立山 学(たてやま まなぶ)
社会運動家・ジャーナリストとして活躍。とくに国鉄分割民営化問題では、鉄道の安全が損なわれると厳しく民営化批判の論陣を張ってきた。

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