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Channel: 詩人PIKKIのひとこと日記&詩
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虫ケラのように県民殺した沖縄戦 「二度といくさの盾にさせぬ」 沖縄県立第一高女同窓生による座談会

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 沖縄県知事選の最大の争点である米軍基地問題をめぐり、県民の4分の1にあたる20万人の犠牲者を出し、基地がつくられる根源となった沖縄戦の体験者たちの経験を次世代に受け継ぐこと、そして日本全国がそれを共有することが求められている。本紙は、故・翁長知事の叔母にあたる翁長安子氏をはじめ、沖縄戦当時、沖縄県立第一高等女学校(那覇市真和志)1~3年生だった同窓生に那覇市内に集まってもらい、当時の体験や思いを話してもらった。

沖縄戦の体験を語る沖縄県立第一高等女学校の同窓生たち(19日、那覇市)
 本紙記者 基地問題を考えるとき、故・翁長知事をはじめ米軍基地建設とたたかう多くの県民の胸のなかに、絶対に譲ることのできない記憶として沖縄戦の経験があると思う。その沖縄戦とはどんな戦争だったのか。みなさんの体験と思いを、未来を担う次世代、全国に伝えたい。

 翁長 ここに集まったのは沖縄戦当時、那覇の真和志にあった県立第一高女に在校していた人たちだ。ひめゆり部隊は寄宿舎生たちで編成された看護隊だが、それ以外の生徒たちも沖縄戦でみんなひどい目にあっている。1945年4月1日に読谷村から上陸した米軍は、沖縄本島を南北に分断し、沖縄守備軍の司令部があった首里に向けて猛攻を仕掛けた。はじめは私も1、2週間で終わると思っており、まさか3カ月間も続くとは思ってもいなかった。

 島袋 前年の10・10空襲で、那覇の大半は焼け野原になった。飛行機の友軍機かと思っていたら「敵機だ!」と大騒ぎになり、楚辺方面からグーッと低空飛行で飛んできて猛爆をした。すぐに火柱が上がり、サイレンが出たのはその後だった。守備軍司令部の第32軍は波之上のホテルで宴会をしていたそうだ。はじめは爆弾で積み木崩しのように家が壊され、それから焼夷弾を落としたので街はボンボンと燃えた。那覇が灰燼(かいじん)に帰したときには米軍は帰っていった。

 翁長 米軍は6時になったら砲撃をやめる。新都心(シュガー・ローフ)の戦闘でも夕方になると野戦砲、機銃、戦車砲もピタッと止まる。それから日が暮れて、向こうが夕食をとって寝る用意に入るとき、日本兵は戦う武器がないから爆雷を抱えて「斬り込み(体当たり)」だ。米軍は空からも陸からも海からも攻撃するが、日本軍は洞穴に仕掛けた爆雷くらいのものだった。それは戦争とはいえない一方的なものだった。

 天久(那覇市北東部)の陣地は、使わないうちに米軍に潰されて砲台を占拠された。嘉手納基地も伊江島も、読谷、那覇空港でも日本がつくった滑走路は、米軍が後から使うために準備したようなものだった。高射砲も敵機を撃ち落とす前に艦砲で叩かれた。なぜなら沖縄を米軍の艦船がとり巻いている。識名(首里の南側)の高台から海を見ると、どこに島があったかわからないほど、渡嘉敷島から糸満の沖までズラーッととり巻いていた。

 そこに友軍(日本軍)の特攻機が飛んでくると、すべての艦船が一斉にサーチライトで空を明るく照らし、逃げ場を与えないくらいに高射砲や機銃で集中砲火する。まるで蜘蛛の巣にかかるような感じで撃ち落とされていった。私の兄も特攻隊に行っているので「ひょっとしたら…」と肝が潰れる思いで見ていた。「片道燃料、死出の旅」で知覧(鹿児島)から飛び立ち、ほとんどが軍艦に突っ込む前にやられた。軍の上層部がどんな考えでやったかわからないが、あんなに優秀で体格も立派なお兄ちゃんたちを予科練や特攻隊で養成して死出の旅に送り出した。

 与儀 北部でも同じだった。本部(もとぶ)の嘉津宇岳付近の山上から沖を見ていると、伊江島から本部の間の海の米軍艦船がたくさん並んでいるところに友軍機が飛んでくる。ブーンと遠方の空から飛んでくるのが見えると、すぐにサーチライトで照らされて蜂の巣のように撃たれる。これにはまってしまったらもう助からない。ヴォンヴォンヴォン…と悲しそうなエンジンの音を出して落ちていく。「あぁ、またやられた…」と毎晩、胸が潰れる思いで見ていた。
 喜界島や大島付近でも、知覧から飛んでいって沖縄に着く前に撃ち落とされ、海に突っ込んで島にうちあげられ、住民に助けられたという。

 翁長 その人たちは、戦争の実態を暴露しないために、2カ年は沈黙しなければいけなかったという。「非国民になるから口を開くことはできなかった」と。この「非国民」という言葉が、私たちの教育では徹底された。私も戦時中、父親が一緒に避難しようといったのに「断りもなく部隊から抜けるわけにはいかない。部隊の許可を得てからお父さんのところに戻る」と答え、父親は「これはダメだ」と諦めていた。非国民といわれなくても、自分の心でそう思っていた。従軍しているのに勝手に家に戻ることは許されることではなかった。「欲しがりません勝つまでは」で、お国のために働くことがすべてだった。

 島袋 当時の学生は、看護学徒隊でなくともそれぞれの部隊で何らかの形で軍の仕事に従事した。学校でも軍の作業に動員されていたから、ほとんど勉強をしていない。私は作業中にヤケドをして家にいるときに10・10空襲だった。ケガをしてなければ小禄の飛行場に動員されていたので、恐らく助かっていなかったと思う。

 同級生の一人は、お母さんが小学校の教員だったので、子どもたちに本土への疎開を奨励した。だが自分が子どもたちと一緒に乗る予定だった疎開船は満杯だったので、他の人に譲って船を下りた。その船が対馬丸だった。航海の途上で潜水艦の魚雷で撃沈され、児童を含む1600人以上が亡くなった。戦後、お母さんは沈む船に教え子を乗せたことへの自責の念でとても苦しんでおられた。

 私は10・10空襲で家を焼け出されたので学校の寄宿舎に入ることになったが、2回目の空襲でそこも追われたので一度家に帰った。そこで父は「これから学校に帰ったら命はないと思いなさい」「命は一番、勉強は二番」といって私を学校に帰さなかったから軍に従事することはなかった。疎開するのは「国賊、非国民」となる覚悟が必要だった。

 私が疎開した北部の山原(やんばる)では食料がなく、飢餓状態になって山を下りるところで捕虜になった。米軍に捕まれば殺されると思ったら、たくさんの食料をくれた。沖縄には“ムヌクイシドゥワガウシュウ(ものをくれる人が我が主)”という言葉がある。そこからはアメリカ様様になってしまった。われわれの世代は、人生のうちに言葉も変われば、主も変わるという荒波のような時代を生きてきた。同級生は38人が戦死している。ひめゆり学徒隊だ。生き残った自分たちが平和のために語り継がなければいけないと思って、必要とあらば体験を語るようにしている。

 翁長 沖縄では、神様のように偉い人たちが日本軍に睨まれて闇討ちをされた。これは沖縄人には耐えられないものだ。御真影(天皇の肖像)を守る勤めを果たすため山の中に避難している校長先生を「スパイだ」といって殺している。部隊が駐屯するときに地域の人脈を把握してリーダーをスパイ視して殺している。私もスパイの疑いをかけられたが、そのようなことがあちこちで起きた。一生懸命国に尽くしてきた人間を人間として見ていない。「軍は県民を守らない」というのが、沖縄県民が体験した真実だ。なかにはいい人もいたが、全体としてそのような組織ではなかった。


 翁長 首里(司令部)が陥落したときに軍が降伏しておけば、残りの12万人は死なずに済んだと思う。私は、沖縄特設警備隊第223中隊(永岡隊)に看護要員として従軍していたが、陥落後も首里にいた。なぜなら、日本軍の主力は撤退しているのに「お前たちは郷土部隊だから最後まで首里を死守せよ」との命令を受けたからだ。この部隊は、学校の先生や県庁の職員などが多く、首里安国寺の永岡敬淳住職(大尉)が隊長だった。

 その軍令を伝えに来たのが、担任の糸数用武先生だった。糸数先生はそれを伝えた後、砲弾が雨あられのように降る外へ出て行かれた。「先生、なぜ出て行くんですか!」と問う私に「私には私の役割がある」といい残して。

 戦って生きのびてきた兵隊たちが玉陵(琉球王統の陵墓)まで上がってきたときに爆弾が落ち、17人のうち6人が即死した。そのうち残った5、6人が壕に駆け込んできた。暗い壕の中にどれくらいいたのかはわからないが、部隊は第1~3小隊まであった。一中健児隊(鉄血勤皇隊)も傍にいたが、6月11日には南部に撤退している。その壕へ永岡隊の生き残りたちが入ってきていた。

 朝5時半ごろ、壕の外で水くみをしていると、「トンボが来たー!」と監視兵から連絡が来た。バケツをもって壕に逃げ込んだかと思うと、戦車砲がボーンと一発撃ち込まれた。今度は「戦車が来た!」という。外ではゴトゴトと戦車の音が聞こえる。もうどうしていいかわからず、隊長が「戦闘準備」といったかいわずか、その言葉も聞かないうちに今度は火炎砲が飛んできた。前の晩に生き延びて入口にある簡易の二段ベッドに横になっていた兵隊たちは、それはもうヤギのように焼き殺された。

 次に飛んできたのはガス弾だ。壕の中ではみんなアァーと騒いでいる。煙とガスと火で錯乱状態だ。私たちは10・10空襲で焼け出された裁判所が、大事な書類を保管するためにこの壕に移転していた金庫(書棚)の後ろにいたため、戦車砲もガス弾も免れた。壁の厚さが20㌢もある観音開きの立派な書棚だった。防毒面をしていたからガスも吸わずに済んだ。

 しばらくしたら、上の方で「ギリギリギリ…」と穴を開ける音がした。米軍が爆雷を埋め込む音だ。隊長が「馬乗りされたな」と一言いった。それからどれだけたったときか、バ、バーンッ! と爆発音がして、それからはわからない。馬乗り攻撃で壕全体が潰されたのだ。気付いた時には、もう何が何だかわからず、とにかく苦しかった。私が暴れたらしく、誰かが私の手を押さえて「静かにしろ!」といった。もがいて防毒面をとろうとすると「とるな!」と隣の兵隊からいわれた。あちこちから「隊長殿ぉ」「隊長殿…」と悲鳴が聞こえる。隊長は「ご苦労さんだった。僕もすぐ逝くから」とばかりいわれていた。「隊長殿、お世話になりました…〇〇です」と名前をいう人もいるが聞きとれない。私を知るおじさんは、私の声に気づき「安子さん、生きていたか。私はもうダメだ…」とおっしゃった。「お世話になりました」「先に逝きます」などの声のやりとりがしばらく続き、やがて静寂になった。

 その後、「生きている者は隣同士で合図をしなさい」という隊長の命令で、生存が確認できたのが9人だった。不思議にも裁判所の大きな書棚が、上から落盤した大きな岩を支え、反対側の岩もそこに倒れ込み、私たち9人は岩と書棚の空間にいたため岩の下敷きにならずに済んでいた。

 何時間かたった後、当番兵の石原兵長が「隊長、脱出するからそのつもりで」といった。隊長は「ここが永岡隊の最期の場だと決めてある。仏様と一緒にここを守る義務がある。君たちだけ脱出しなさい」という。石原さんも「隊長なしの部隊などありません。ぜひ一緒に脱出してください」と譲らない。衛生兵が「隊長殿、一緒に脱出してください。南部では先発隊が待っていますから」と押し問答が続き、最後は根負けして一緒に脱出することになった。

 日が暮れて「どうやって脱出するか」となり、暗闇を四つん這いでいくと壕の裏側は米軍に破壊されて空洞になっていることがわかった。そこを見ると、ちぎれた首や胴体や手足がみんな壁に貼り付いていた。内臓まで破裂した死体の山だ。米軍が打ちあげる照明弾の光ですべて浮かび上がる。「あ、あれは高良軍曹だ」「あれは〇〇だ」と、顔がちぎれて壁に貼り付いている。足元に転がっている死体を踏みつけないと壕からは出られない。

 石原さんが先発し、衛生兵の後に隊長が続く。隊長が私に「安子さん、私のベルトをつかみなさい」という。私は「はい」といって、隊長の帯剣をぶら下げるベルトをつかんで歩いたが、足元は岩なのか死体なのか、照明弾の明かりでも判別がつかない。あたりは血の海で内臓も散乱している。雨も降っていたこともあり、3、4歩ほど歩いたとき、岩だと思って踏んだ死体に足をとられ、その拍子に隊長のベルトから手を離してしまった。私はそのまま崖の斜面を転がり落ちた。上ではバラバラバラッと自動小銃の音が聞こえた。米軍は掃討作戦でそこら中に立っていたのだ。

 その弾が私の背負っていたリュックを貫通して背中をえぐっていた。何時間気を失ったかわからないが、目が覚めたら周りはすべて死体。生きている人はいない。「どうしよう…」とじっとしていたが、死体の中から這い出した。現在の「一中健児の碑」のあたりまで這い出していくと、下から米兵が5、6人、掃討作戦で日本兵狩りに来ていたので、また死体と一緒に死んだふりをした。

 幸いに米兵が素通りしていったので、それを見計らって寒川の道まで出た。喉が渇いてしょうがなかったので、仲之川の井戸まで100㍍ほど這っていくと、井戸の中には死体が2体浮いていた。木切れで死体をかき寄せて、顔を突っ込んで水を飲んだ。すると背中が裂けるように痛い。触ると血でベトベトだった。ケガをして水を飲むと出血が増す。「あぁ、私もやられていたのか…」とはじめて自覚した。

 「ここで死ぬわけにはいかない」と一念発起し、腰に巻いていた三角巾を外して、止血するつもりで傷口を縛った。「金城町の石畳」まで出ると、ここも死体の山。すべて軍人の死体だった。首里防衛のために戦ったときか、南部に移動するときにやられたか。四つん這いになって寒川まで降りると、空からギラギラ光るものが降ってきた。黄燐弾だったのではないかと思う。これに触れると火傷をすると衛生兵がいっていたことを思い出し、新垣という赤瓦の門の酒屋に逃げた。

 繁多川の坂道に渡ろうとしたら橋がない。「ここで死ぬのか…」と悟り、ここではじめて「お父さん、お母さん! どこにいるのー、迎えに来て!」と大きな声を出して子ども泣きに泣いた。橋の欄干にかけてあった丸太に気づき、それに飛び乗って向こう岸の繁多川に渡ると、ここからは民間人の死体だった。浦添や宜野湾方面から、安里鉄道(軽便鉄道)の道沿いに歩いて来た人たちだ。軍服ではない人たちの死体ばかりで、毛布やトタンを被せられている死体もあった。ずっと雨が降っているからウジや蝿が流されていて、異臭も和らいでいた。そこから識名園までいったが、こんな姿の私に「女学生さん、助けてください」と声がかかった。「溝の中にいるが、右足と右手がないから助けて」という。私も背中をやられて歩けず、四つん這いで歩いている事情を話し、「ごめんなさい。後ろからまた誰か来るかも知れないから」と通り過ぎるほかなかった。

命からがら、着の身着のままの姿で壕から這い出して収容所に向かう住民たち(1945年6月)
 翁長 津嘉山(南風原町)の部落にいくと、浦添や宜野湾などあちこちからきた住民が、どこに行っていいかわからず、荷物を担ぎ、子どもをだっこして大勢道ばたに座り込んでいる。みんな疲れ果てて、きび畑の中や道ばたに寝そべったり、座ったりしていた。それはもう哀れだった。知人のおじさんに八重瀬の病院までつれていってもらい、治療を受け、近所の人からウジ虫を撃退するニンニクをもらった。

 この場所では、5月31日から6月3日までは同じ沖縄とは思えないほど平穏だった。このとき日米で交渉があったはずだ。海軍は太田中将が6月6日に「沖縄県民斯ク戦ヘリ」「保護を頼む」と大本営に打電し、その後自決している。だが陸軍は首里でも交渉を拒否し、摩文仁に逃れていた。本土上陸を遅らせるための持久戦だ。遙か遠くに聞こえる艦砲は、摩文仁方面に撃ち込まれていた。

 首里からきたおじさんは背中とかかとをやられて足はウジ虫だらけだった。ウジは親指大まで大きくなり、モコモコと肉をかじる音まで聞こえる。ススキの穂先でウジをかき出して、ニンニクをすりつぶして付けてあげた。一緒に糸洲(糸満市)に向かったが、先発部隊に追いついて私が気を失っている間におじさんは息を引きとっていた。

 またトンボ(偵察機)が飛んでくる。そして艦砲が飛び、戦車がやってくる。「また戦場になるんだな…」と思った。

 3日目に永岡隊長たちと轟の壕(糸満市伊敷)で再会した。この壕でも赤ん坊を連れた母親が追い出され、艦砲の直撃で亡くなったりもした。酸素もなくてロウソクもろくに灯らない。島田知事と荒井警察署長とも出会ったが、署長はアメーバ赤痢でガリガリにやせておられた。この後、お2人も消息を絶たれた。担任の糸数先生が直撃弾で即死したことも知った。

 残ったわずか40人にまた命令が出る。「生き残った者は、国吉・真栄里の戦線へ出動せよ」と。6月18日に米軍司令官のバックナー中将が戦死した場所だ。それからは民間も軍人も見境いのない無差別攻撃だった。逃げ惑う住民も片っ端からやられた。その翌日に学徒隊にも「解散命令」が出て、壕から出たとたんに米軍の猛爆撃に晒された。ひめゆり学徒隊もそれで大半が亡くなった。あれほどたくさんの住民が生きる活路を求めて南部へ、南部へと逃げてきていたのにほとんど全滅だ。死んだ母親のおっぱいにしがみついている赤ん坊を見て助けようと思っても、自分も一分後にはどうなるかわからない。首のない赤ん坊をおんぶしている母親や、天秤棒の片方には死んだ男の子、片方には荷物や鍋釜を乗せて逃げるおじいさん……こんな人たちとすれ違う。暗くなってからはどこに死体があるかわからず、踏みつけることもあった。

 この魂が安らかに成仏できたとは思えない。苦労しながら逃げたところで、最後のとどめを受けて弾の餌食になっている。なぜこんな人殺しのためにこんな兵器を開発するのか。一発で何人殺せるかだけを研究する科学者のことを思うと、本当に情けない。それを使って戦争をやるのは政治家だ。政治家というのは人の命を守るのが仕事であり、人の命を粗末にする政治家はいらない。

 島袋 小学2年生のときに日中戦争、小学6年生のときが真珠湾攻撃だった。なぜ負けるとわかっている戦争に手を出したのか。大国相手に身の程知らずの戦争をやり、国民には長刀訓練やバケツリレーの防火訓練をさせたが、なんの役にも立たなかった。

 翁長 私たちは軍国主義時代に教育を受けて生活をし、また戦後は米国の植民地政策に乗っとられてしまった。日米地位協定など棚に飾ったボタモチと一緒で、連日どんな事故や事件が起きても、どんなに住民が訴えても何の正解もない。住民がどうなろうと日米政府が都合良く運営できるようになっている。だから、このさい保守も革新も乗りこえて、沖縄県民が一つになって「私たちの島は私たちのものだ」といえるくらいにならないといけない。はした金に目がくらんだら、絶対に沖縄はとり戻せない。

 与儀 日米地位協定は、同じ敗戦国でもヨーロッパの地位協定とは雲泥の差がある。変えてほしいといくら訴えても国は動かない。そのために県民は、いつも危険と不安に晒されている。本当に悔しいが、どうして聞き入れられないのか。やがて爆発寸前だ。

 翁長 知事選で本当に県民の意志をはっきりさせないと、安倍さんのいいなりになっていたら、また昔のような状態が起きないとも限らない。北朝鮮、中国、ロシアも一緒になってアメリカと対話をしているが、沖縄では新たな基地を「つくって差し上げる」そうだ。いつどうなるかわからない。あの大統領も沖縄の基地のことなどまるで考えていないだろう。

 与儀 日本本土でも広島、長崎の大きな悲劇もあったが、沖縄の地上戦は3カ月も続いた。だがそれが理解されない。政府に声が届かない。沖縄では誰一人として基地に賛成する人はいない。だが目の前の経済や暮らしに惑わされて、沖縄の将来を直視せず、馴れ合いで党派ばかりに凝り固まって基地建設に賛成するかのような人が出てくるから心配だ。これまで過重な基地負担を押しつけられ、「もうこれ以上はつくらないでほしい」というギリギリの要求すら聞き入れられないことが悔しい。少しでも容認のような気持ちをあらわすというのは考えられない。

 翁長 行政を預かる大臣や政治家たちは基地の周りで一週間でも寝泊まりしたらいいと思う。地上戦とは話は違うが、嘉手納でジェット機が降りるときには、車が揺さぶられるほどの振動が起きる。地上戦の苦しみをわからないで政治をやり、お金で物事が解決するという考え方で、人間の生きる望みを簡単に摘みとっている。第二次世界大戦では、何百万人という若者を肉弾にした。大学を出た兄が25歳で戦車撃滅隊で死んだことを思うと、兄の生まれてきた意味は何だったんだろうかと思う。こんなことのために生きたのかと。沖縄で亡くなった20万の県民も同じだ。だから、命の重さを理解しない人に政治家になる資格はない。

 島袋 兵隊さんを「武運長久」の日の丸を振って見送ったが、あっという間に白木の箱が帰ってきた。その慰霊祭にまた参加する。戦地に行くということは死ぬことが前提だった。夫もシベリアで凍傷になって帰り、栄養失調で土左衛門のようになっていた。二度と沖縄の若い者が戦場にいくようなことをすべきではない。

 翁長 これから新しい基地をつくるということは、沖縄を永久に基地の島にするということだ。弾は人を選ばないことを知るべきだ。無差別に人の命を奪っていく。そのようなものを輸出したり、売ったり買ったりして金もうけを企んでいる国を応援している安倍さんは、本当に民主国家の総理大臣なのかと思う。

 与儀 私たちの世代は、幼少期には戦争を知らないから軍国少女として兵隊さんたちと陣地構築をしていた。子どもの頃から「教育勅語」や「大政翼賛」とかの掛け声で死にものぐるいで一生懸命やり、米軍が上陸して公務員も含めて全部犠牲になった。軍隊が住民を守らないことをわかっているから基地に反対だ。戦争を体験していない世代の人たちはそれを知らない。戦争がどのようなものかわかっていない。

 沖縄は基地があるがゆえに犠牲になった。あの戦争で大本営は「本土を守るため時間を延ばせ」といって犠牲者がどんどん増えた。生きるか死ぬかの場面で、兵隊も住民も生きようとし、軍隊は守るどころか住民を追い出して弱い者が犠牲になった。年寄りが頑張って辺野古の現場に行っているのも、沖縄が戦争の盾になるということはもうごめんだと思うからだ。若い人も切実に考えてほしい。ここにいる人たちもみんな姉さんたちはひめゆりに祀られている。私の両親も戦争で亡くなっている。

 父親まで防衛隊でとられ、13、14歳の少年まで勤皇隊に駆り出され、陸軍中野学校出身の兵隊に引率されて肉弾戦に行った。私も見たが、山の中で20人の少年たちが背中に爆雷を担がされて、大人に連れられて行った。後で聞くと、みんな米軍の陣地に体当たりして玉砕したという。ひめゆり部隊でもうら若い少女たちが戦場につれていかれ、どの家にも犠牲者がいて、沖縄県民はそれを乗りこえてきた。しかし、今も絶えず基地や戦争の危険にさらされ続けている。理不尽でしょうがない。

 島袋 靖国神社に参拝しに行ける同級生をうらやましがったが、戦後にお見舞いに行くと、その家では父が戦死し、兄も水産学校で戦死し、本人もひめゆり部隊で家族3人の遺影が飾られていた。妹が一人だけお嫁にいかずに仏様を守っていた。亡くなった人も無念だが、残された家族もたいへんな戦後だった。

 翁長 南部では、一家全滅が4世帯に1世帯の割合であった。誰も弔う人がいないから、地主さんが畑の真ん中に石を積み上げた祠(ほこら)をつくって、木切れに名前を書いた位牌を作って立てていた。それが10年くらいはあちこちにあり、見るたびに「ああ、一家全滅だな」と思っていた。ある部落では、公民館に朱塗りの位牌がずらっと並んでいる。一家全滅した家や畑を公共物に使ったから、村が身内の代わりに供養していた。

 戦後の最初の仕事は、おびただしい数の遺骨を拾って供養することだった。沖縄戦の末期に島尻だけで10万人もの人たちが亡くなり、そのまま野ざらしにされていた。亡くなった同級生の娘さんの父である真和志村の金城和信村長が発案し、糸満高校真和志分校の翁長助静校長(翁長雄志知事の父)が先頭に立ち、南部に眠る兵士や住民の骨3万5000柱を集め、糸満米須に「魂魄(こんぱく)の塔」を建立した。沖縄では戦後の政治の原点だ。

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