『天皇陛下にささぐる言葉』(坂口安吾、景文館書店、200円、2019年3月刊)/評者:志真秀弘
本書、といっても、これは新書よりわずかに大きいだけの、都合32ページのパンフレットで、そこに坂口安吾(1906-55)の4本のエッセイが収録されている。「天皇陛下にささぐる言葉」(1948年1月)、「堕落論」(1946年4月)、「天皇小論」(1946年6月)、「もう軍備はいらない」(1952年10月)の4篇(カッコ内は初出年月)がそれで、発表されたのは70年以上昔になるが、いささかも古くない。温故知新、今こそ読まれるべきで、これを200円のパンフレットとして売り出した出版人の心意気やよしだ。表紙は、遠くに国会議事堂が見える一面焼け野原の写真であり、これも文章が発表された時代を雄弁に物語っている。
敗戦後、発表されるや熱狂的に迎えられ、たちまち安吾を流行作家に押し上げたと言われるのが「堕落論」だが、それは「半年のうちに世相は変った」に始まる疾走感に溢れた、心をわしづかみにするような文章の連続であり、無駄がない。言わんとするところは、節婦は二夫に見えず風な戦前的・武士道的徳目にしばられて生きるのでなく、ひとりの人間としてこの世を生き抜くことこそ真の生だというにほかならない。人は「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」、日本もまたそうだ。
つまり日本もまた「堕ちる」べきというのがこの文章のもうひとつの主題である。昔から日本の政治的支配者たちは、自己の隆盛を約束する手段として天皇制つまり絶対君主の必要を本能的に嗅ぎつけていた、と安吾はいう。「天皇制は天皇によって生み出されたものではない。天皇は時に自ら陰謀を起こしたこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。・・・その存立の政治的理由はいわば政治家たちの嗅覚によるもので、彼らは日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた」。(*写真=1946年 坂口安吾 撮影:林忠彦)
こうして「天皇の人気には、批判がない」(「天皇にささぐる言葉」)とは自然なことであって、それは「一種の宗教、狂信的な人気であり、その在り方は邪教の教祖の信徒との結びつきの在り方と全く同じ性質のもの」とするのも合点がいく。そして天皇の在り方と我々の在り方との双方を刺し貫くこの考察は、いまも生きている。だとすれば、改めてその意味を考えずにはいられない。敗戦後74年、安吾死して64年、われわれの民主主義はどれほど進んだか、あるいは進まなかったか?
もうひとつ、「もう軍備はいらない」から紹介したい件がある。
「・・・現在どこかに本当に戦争したがっている総理大臣のような人物がいるとすれば、その存在は不気味というような感情を全く通り越している存在だ。同類の人間だとは思われない。理性も感情も手が届かない何かのような気がするだけだ」。
この文章がもし予言のように響くとすれば、それは安吾が「曠野の流浪」としての文学の道を歩きつづけたからに他ならない。人間の真実を明らかにしようとするかれの文学の力である。山椒は小粒でものことわざどおり、この小冊子は、天皇、戦争、そして文学を考えさせずにはおかない。
出版社のホームページを見れば、本冊子の取扱書店の一覧が載っている。また「青空文庫」のサイトにはこの4篇すべて掲載され、坂口安吾の大方の作品も読むことができる。
*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美、ほかです。
*「エイプリル・ソルジャーズ ナチス・北欧大侵略」-https://gyao.yahoo.co.jp/p/00938/v00778/
本書、といっても、これは新書よりわずかに大きいだけの、都合32ページのパンフレットで、そこに坂口安吾(1906-55)の4本のエッセイが収録されている。「天皇陛下にささぐる言葉」(1948年1月)、「堕落論」(1946年4月)、「天皇小論」(1946年6月)、「もう軍備はいらない」(1952年10月)の4篇(カッコ内は初出年月)がそれで、発表されたのは70年以上昔になるが、いささかも古くない。温故知新、今こそ読まれるべきで、これを200円のパンフレットとして売り出した出版人の心意気やよしだ。表紙は、遠くに国会議事堂が見える一面焼け野原の写真であり、これも文章が発表された時代を雄弁に物語っている。
敗戦後、発表されるや熱狂的に迎えられ、たちまち安吾を流行作家に押し上げたと言われるのが「堕落論」だが、それは「半年のうちに世相は変った」に始まる疾走感に溢れた、心をわしづかみにするような文章の連続であり、無駄がない。言わんとするところは、節婦は二夫に見えず風な戦前的・武士道的徳目にしばられて生きるのでなく、ひとりの人間としてこの世を生き抜くことこそ真の生だというにほかならない。人は「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」、日本もまたそうだ。
つまり日本もまた「堕ちる」べきというのがこの文章のもうひとつの主題である。昔から日本の政治的支配者たちは、自己の隆盛を約束する手段として天皇制つまり絶対君主の必要を本能的に嗅ぎつけていた、と安吾はいう。「天皇制は天皇によって生み出されたものではない。天皇は時に自ら陰謀を起こしたこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。・・・その存立の政治的理由はいわば政治家たちの嗅覚によるもので、彼らは日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた」。(*写真=1946年 坂口安吾 撮影:林忠彦)
こうして「天皇の人気には、批判がない」(「天皇にささぐる言葉」)とは自然なことであって、それは「一種の宗教、狂信的な人気であり、その在り方は邪教の教祖の信徒との結びつきの在り方と全く同じ性質のもの」とするのも合点がいく。そして天皇の在り方と我々の在り方との双方を刺し貫くこの考察は、いまも生きている。だとすれば、改めてその意味を考えずにはいられない。敗戦後74年、安吾死して64年、われわれの民主主義はどれほど進んだか、あるいは進まなかったか?
もうひとつ、「もう軍備はいらない」から紹介したい件がある。
「・・・現在どこかに本当に戦争したがっている総理大臣のような人物がいるとすれば、その存在は不気味というような感情を全く通り越している存在だ。同類の人間だとは思われない。理性も感情も手が届かない何かのような気がするだけだ」。
この文章がもし予言のように響くとすれば、それは安吾が「曠野の流浪」としての文学の道を歩きつづけたからに他ならない。人間の真実を明らかにしようとするかれの文学の力である。山椒は小粒でものことわざどおり、この小冊子は、天皇、戦争、そして文学を考えさせずにはおかない。
出版社のホームページを見れば、本冊子の取扱書店の一覧が載っている。また「青空文庫」のサイトにはこの4篇すべて掲載され、坂口安吾の大方の作品も読むことができる。
*「週刊 本の発見」は毎週木曜日に掲載します。筆者は、大西赤人・渡辺照子・志真秀弘・菊池恵介・佐々木有美、ほかです。
*「エイプリル・ソルジャーズ ナチス・北欧大侵略」-https://gyao.yahoo.co.jp/p/00938/v00778/