村上春樹『職業としての小説家』を読む -
神からの啓示、音楽とフィジカル
村上春樹の『職業としての小説家』は、ウェーバーの2冊(学問・政治)のタイトルを捩ったものだ。最初、この情報に接したとき、村上春樹が自身と自身の作品を初めて語ったエッセイ集に、軽い気分でこの題名を付したものかと簡単に思っていた。読み進むうち、その感覚が次第に変わり、これはまさに中身のレベルでウェーバーの達成が野心的に意識されていて、そして、ウェーバーに並ぶ世界の古典になるのではないかと、そう思えてきた。ものを書く者にとって、永遠に参照され、手引き書とされる、そんな必読の一冊となり、ウェーバーと同じように、村上春樹はここでこう言っていると、ある部分がハイライトとして紹介され、世界の一般知となり、教養となるのではないかと、そんな想像を持った。ウェーバーの場合、「政治をする者は悪魔と手を握らなくてはならない」とか、「情熱と判断力を駆使して堅い板を刳り抜く(目的と結果を諦めない執念深さを持つ)者だけが政治への天職を持つ」とか、誰もが暗記している有名な一節がある。何かの折に必ず引用される。村上春樹の今回の作品中の、パラフレーズ論(P.21)とか、エピファニー論(P.42)とか、文体開発法(P.47)とか、オリジナリティの3要件(P.90)とかは、文学の方法論として古典的地位を得て、末永く議論されつつ人類の知恵となるものと、そう予想する。
村上春樹は、もうそんな大きな仕事をする人になった。でも、村上春樹は村上春樹で、私が最初に出会った1987年の頃とちっとも変わっていない。今回の新刊は、ですます調で自分と作品を語るエッセイだったので、ストレートにその事実を感じられた。変わっていない。30年前の若々しい精神のままだ。他の多くの者は変わった。時代も変わり、社会も変わった。何もかも変わって腐り果てた。だが、村上春樹は変わっていない。村上春樹が他と違うところは、誰かに媚びへつらうことがないことだ。群れと交わらず一匹狼で生きていて、一人で時代と戦っている。WinWinという態度や行動をしない。金に媚びない。権力に媚びない。だから、シンプルだけれどナチュラルに生きている。印税収入の規模を考えれば、とんでもない大金持ちに違いないが、そんな富裕性を感じさせず、本当に手を伸ばせば届く身近な人に感じる。稼いで貯めたお金の多さとか、成功して膨らんだ業界の人脈とか、名望とか、そういうギトギトした脂っこく薄汚い手垢感を感じさせることがない。一人の青年が同じ精神のまま自分を見失わずに立っている。屈折感がない。偏屈さもない。誰も恨んでいない。謙虚で素直だ。能力があり、自信があるからこそ、人に阿ることなく、ありのまま謙虚で素直でいられるのだ。村上春樹には嘘がない。ずっと変わらないから信用できる。
この作品はエッセイの形式だけれども、村上春樹の名作の長編小説を読み上げたときと同じ感銘を受けた。感じ伝わったもの、受け取ってインスパイアされたものが同じで、すなわち、読み終わった後に視野が広がって覚醒と昂奮に誘われ、昨日までの自分とは違う自分に新生して再出発できるような、そういう契機とエネルギーを掴み取った感覚になるところが同じだ。不思議なほど、小説の読後感と同じそっくり同じ意識が残って、体内で沸々と熱を発している。そして、村上作品に出会ってからの30年間の来し方を振り返っている。もう少し踏み込んで言うと、長編小説のときは、明日から自分はこうなろう、こういう挑戦に歩み出そう、日常の関係を組み直そうという意思や意欲が、想念として抽象的に起こったものだけれど、今回はとても具体的な課題や要件となって、いわば日課的なもの、心得的なアイテムとなって立ち現れる読書結果となった。その意味で、このエッセイは、後世の人々に、徒然草や方丈記のような読まれ方をするかもしれないと思わされる。今回のエッセイは、小説の神髄や小説の書き方の指導や小説家の資質・資格の一般論を整理しているだけでなく、明らかに、自らの知的生産の技法やその基礎たる日常生活の秘訣を教えていて、人生があと20年とかの者に、残りの一日一日をいかに生くべきか説いている。例を上げると、音楽とフィジカルの啓示があった。
音楽について。村上春樹はこう書いている。「小説を書いているとき、『文章を書いている』というよりはむしろ『音楽を演奏している』というのに近い感覚がありました。僕はその感覚を今でも大事に保っています。それは要するに、頭で文章を書くよりはむしろ体感で文章を書くということかもしれません。リズムを確保し、素敵な和音を見つけ、即興演奏の力を信じること」(P.49)。「そういう作業を進めるにあたっては音楽が何より役に立ちました。ご存じのように、ジャズにとっていちばん大事なのはリズムです。的確でソリッドなリズムを終始キープしなくてはなりません。(略)その次にコード(和音)があります。(略)綺麗な和音、濁った和音、派生的な和音、基礎音を省いた和音、(略)みんな同じ88鍵のピアノを使って演奏しているのに、人によってこんなにも和音の響きが違ってくるのかとびっくりするくらいです。そしてその事実は、僕らにひとつの重要な示唆を与えてくれます。限られたマテリアルで物語を作らなくてはならなかったとしても、それでもまだそこには無限の(略)可能性が存在しているということです」「こうしてキーボードを叩きながら、僕はいつもそこに正しいリズムを求め、相応しい響きと音色を探っています。それは僕の文章にとって、変わることのない大事な要素になっています」(P.123-124)。きわめて重要な啓示だ。そう、音楽を聴くことだ。
この本を読むと、村上春樹の場合はいつもそうだが、無性に紹介されたジャズの曲を聴きたくなる。セロニアス・モンク、ビル・エヴァンス、ハービー・ハンコック。そうだ、残りの人生でもっと音楽を聴こう。村上春樹の真似をして、文章の生産性と完成度を上げるためにジャズを聴こうと思った。次にフィジカルについて、村上春樹はこう書いている。「長い歳月にわたって創作活動を続けるには、長編小説作家にせよ、短編小説作家にせよ、継続的な作業を可能にするだけの持続力がどうしても必要になってきます。それでは持続力を身につけるためにはどうすればいいのか?」「それに対する僕の答えはただひとつ、とてもシンプルなものです。- 基礎体力を身につけること。逞しくしぶといフィジカルな力を獲得すること。自分の身体を味方につけること」「実際に自分でやってみれば、おそらくおわかりになると思うのですが、毎日五時間から六時間、机の上のコンピュータ・スクリーンの前に(略)一人きりで座って、意識を集中し、物語を立ち上げていくためには、並大抵ではない体力が必要です。若い時期には、それもそんなにむずかしいことではないかもしれません。二十代、三十代・・・。そういう時期には生命力が身体にみなぎっていますし、肉体も酷使されることに対して不満を言い立てません。集中力も、必要とあらば比較的簡単に呼び起こせるし、それを高い水準で維持することができます」(P.168-169)。
「しかしごく一般的に申し上げて、中年期を迎えるにつれ、残念ながら体力は落ち、瞬発力は低下し、持続力は減衰していきます。(略)そしてまた体力が落ちてくれば、(略)それに従って、思考する能力も微妙に衰えを見せていきます。思考に敏捷性、精神の柔軟性も失われてきます」「僕は専業作家になってからランニングを始め(略)、それから三十年以上にわたって、ほぼ毎日一時間程度ランニングをすることを、あるいは泳ぐことを生活習慣としてきました。(略)一年に一度はフルマラソン・レースを走り、トライアスロンにも出場するようになりました。(略)そしてそのような生活を積み重ねていくことによって、僕の作家としての能力は少しずつ高まったし、創造力はより強固な、安定したものになってきたんじゃないかと、常日頃感じていました」(P170-172)。単純な話だけれど、ここにも重要な神からの啓示がある。そう思う。私は、昨年末からランニングを始め、1日2キロの短い距離を走っている。この件はまた別に書きたいが、今、私ぐらいの年齢の者が重く考えていること、毎日の憂鬱になっている問題は、あの「下流老人」の情報であり、その恐怖だろう。「下流老人」の破滅に怯える貧乏人は、とにかく、自分のため家族のために健康を維持しなくてはいけない。でも、生きるため、稼ぐため、生きた証を残すためには、体力を駆使して自らの労働のアウトプットを高めないといけない。それには健康な心身が必要である。
われわれは、日々そのことに悩んでいる。不安におののいている。村上春樹が『職業としての小説家』で読者に与えた啓示は、すなわち、「下流老人」の恐怖の中で生き抜くわれわれに、希望のヒントを与えるものだ。救いの道標となるものだ。だから、私はこの本を特に薦めるのである。
神からの啓示、音楽とフィジカル
村上春樹の『職業としての小説家』は、ウェーバーの2冊(学問・政治)のタイトルを捩ったものだ。最初、この情報に接したとき、村上春樹が自身と自身の作品を初めて語ったエッセイ集に、軽い気分でこの題名を付したものかと簡単に思っていた。読み進むうち、その感覚が次第に変わり、これはまさに中身のレベルでウェーバーの達成が野心的に意識されていて、そして、ウェーバーに並ぶ世界の古典になるのではないかと、そう思えてきた。ものを書く者にとって、永遠に参照され、手引き書とされる、そんな必読の一冊となり、ウェーバーと同じように、村上春樹はここでこう言っていると、ある部分がハイライトとして紹介され、世界の一般知となり、教養となるのではないかと、そんな想像を持った。ウェーバーの場合、「政治をする者は悪魔と手を握らなくてはならない」とか、「情熱と判断力を駆使して堅い板を刳り抜く(目的と結果を諦めない執念深さを持つ)者だけが政治への天職を持つ」とか、誰もが暗記している有名な一節がある。何かの折に必ず引用される。村上春樹の今回の作品中の、パラフレーズ論(P.21)とか、エピファニー論(P.42)とか、文体開発法(P.47)とか、オリジナリティの3要件(P.90)とかは、文学の方法論として古典的地位を得て、末永く議論されつつ人類の知恵となるものと、そう予想する。
村上春樹は、もうそんな大きな仕事をする人になった。でも、村上春樹は村上春樹で、私が最初に出会った1987年の頃とちっとも変わっていない。今回の新刊は、ですます調で自分と作品を語るエッセイだったので、ストレートにその事実を感じられた。変わっていない。30年前の若々しい精神のままだ。他の多くの者は変わった。時代も変わり、社会も変わった。何もかも変わって腐り果てた。だが、村上春樹は変わっていない。村上春樹が他と違うところは、誰かに媚びへつらうことがないことだ。群れと交わらず一匹狼で生きていて、一人で時代と戦っている。WinWinという態度や行動をしない。金に媚びない。権力に媚びない。だから、シンプルだけれどナチュラルに生きている。印税収入の規模を考えれば、とんでもない大金持ちに違いないが、そんな富裕性を感じさせず、本当に手を伸ばせば届く身近な人に感じる。稼いで貯めたお金の多さとか、成功して膨らんだ業界の人脈とか、名望とか、そういうギトギトした脂っこく薄汚い手垢感を感じさせることがない。一人の青年が同じ精神のまま自分を見失わずに立っている。屈折感がない。偏屈さもない。誰も恨んでいない。謙虚で素直だ。能力があり、自信があるからこそ、人に阿ることなく、ありのまま謙虚で素直でいられるのだ。村上春樹には嘘がない。ずっと変わらないから信用できる。
この作品はエッセイの形式だけれども、村上春樹の名作の長編小説を読み上げたときと同じ感銘を受けた。感じ伝わったもの、受け取ってインスパイアされたものが同じで、すなわち、読み終わった後に視野が広がって覚醒と昂奮に誘われ、昨日までの自分とは違う自分に新生して再出発できるような、そういう契機とエネルギーを掴み取った感覚になるところが同じだ。不思議なほど、小説の読後感と同じそっくり同じ意識が残って、体内で沸々と熱を発している。そして、村上作品に出会ってからの30年間の来し方を振り返っている。もう少し踏み込んで言うと、長編小説のときは、明日から自分はこうなろう、こういう挑戦に歩み出そう、日常の関係を組み直そうという意思や意欲が、想念として抽象的に起こったものだけれど、今回はとても具体的な課題や要件となって、いわば日課的なもの、心得的なアイテムとなって立ち現れる読書結果となった。その意味で、このエッセイは、後世の人々に、徒然草や方丈記のような読まれ方をするかもしれないと思わされる。今回のエッセイは、小説の神髄や小説の書き方の指導や小説家の資質・資格の一般論を整理しているだけでなく、明らかに、自らの知的生産の技法やその基礎たる日常生活の秘訣を教えていて、人生があと20年とかの者に、残りの一日一日をいかに生くべきか説いている。例を上げると、音楽とフィジカルの啓示があった。
音楽について。村上春樹はこう書いている。「小説を書いているとき、『文章を書いている』というよりはむしろ『音楽を演奏している』というのに近い感覚がありました。僕はその感覚を今でも大事に保っています。それは要するに、頭で文章を書くよりはむしろ体感で文章を書くということかもしれません。リズムを確保し、素敵な和音を見つけ、即興演奏の力を信じること」(P.49)。「そういう作業を進めるにあたっては音楽が何より役に立ちました。ご存じのように、ジャズにとっていちばん大事なのはリズムです。的確でソリッドなリズムを終始キープしなくてはなりません。(略)その次にコード(和音)があります。(略)綺麗な和音、濁った和音、派生的な和音、基礎音を省いた和音、(略)みんな同じ88鍵のピアノを使って演奏しているのに、人によってこんなにも和音の響きが違ってくるのかとびっくりするくらいです。そしてその事実は、僕らにひとつの重要な示唆を与えてくれます。限られたマテリアルで物語を作らなくてはならなかったとしても、それでもまだそこには無限の(略)可能性が存在しているということです」「こうしてキーボードを叩きながら、僕はいつもそこに正しいリズムを求め、相応しい響きと音色を探っています。それは僕の文章にとって、変わることのない大事な要素になっています」(P.123-124)。きわめて重要な啓示だ。そう、音楽を聴くことだ。
この本を読むと、村上春樹の場合はいつもそうだが、無性に紹介されたジャズの曲を聴きたくなる。セロニアス・モンク、ビル・エヴァンス、ハービー・ハンコック。そうだ、残りの人生でもっと音楽を聴こう。村上春樹の真似をして、文章の生産性と完成度を上げるためにジャズを聴こうと思った。次にフィジカルについて、村上春樹はこう書いている。「長い歳月にわたって創作活動を続けるには、長編小説作家にせよ、短編小説作家にせよ、継続的な作業を可能にするだけの持続力がどうしても必要になってきます。それでは持続力を身につけるためにはどうすればいいのか?」「それに対する僕の答えはただひとつ、とてもシンプルなものです。- 基礎体力を身につけること。逞しくしぶといフィジカルな力を獲得すること。自分の身体を味方につけること」「実際に自分でやってみれば、おそらくおわかりになると思うのですが、毎日五時間から六時間、机の上のコンピュータ・スクリーンの前に(略)一人きりで座って、意識を集中し、物語を立ち上げていくためには、並大抵ではない体力が必要です。若い時期には、それもそんなにむずかしいことではないかもしれません。二十代、三十代・・・。そういう時期には生命力が身体にみなぎっていますし、肉体も酷使されることに対して不満を言い立てません。集中力も、必要とあらば比較的簡単に呼び起こせるし、それを高い水準で維持することができます」(P.168-169)。
「しかしごく一般的に申し上げて、中年期を迎えるにつれ、残念ながら体力は落ち、瞬発力は低下し、持続力は減衰していきます。(略)そしてまた体力が落ちてくれば、(略)それに従って、思考する能力も微妙に衰えを見せていきます。思考に敏捷性、精神の柔軟性も失われてきます」「僕は専業作家になってからランニングを始め(略)、それから三十年以上にわたって、ほぼ毎日一時間程度ランニングをすることを、あるいは泳ぐことを生活習慣としてきました。(略)一年に一度はフルマラソン・レースを走り、トライアスロンにも出場するようになりました。(略)そしてそのような生活を積み重ねていくことによって、僕の作家としての能力は少しずつ高まったし、創造力はより強固な、安定したものになってきたんじゃないかと、常日頃感じていました」(P170-172)。単純な話だけれど、ここにも重要な神からの啓示がある。そう思う。私は、昨年末からランニングを始め、1日2キロの短い距離を走っている。この件はまた別に書きたいが、今、私ぐらいの年齢の者が重く考えていること、毎日の憂鬱になっている問題は、あの「下流老人」の情報であり、その恐怖だろう。「下流老人」の破滅に怯える貧乏人は、とにかく、自分のため家族のために健康を維持しなくてはいけない。でも、生きるため、稼ぐため、生きた証を残すためには、体力を駆使して自らの労働のアウトプットを高めないといけない。それには健康な心身が必要である。
われわれは、日々そのことに悩んでいる。不安におののいている。村上春樹が『職業としての小説家』で読者に与えた啓示は、すなわち、「下流老人」の恐怖の中で生き抜くわれわれに、希望のヒントを与えるものだ。救いの道標となるものだ。だから、私はこの本を特に薦めるのである。